インターネット時代はベタな(あたりまえの)ことが重要になる。
その中でも、最もベタなことが、人に負けない特技を持つことだ。
最初、人は何も持っていない。
何かを創造しない限り。
最も酷い間違いの1つが、学歴があることで、何かを持っていると思うことだ。
これまでは、そんな虚像の力も役に立つように見えたかもしれないが、今後は創造が出来なければ、学歴に何の意味もない。逆に言えば、創造が出来れば、学歴はなくて良い、いや、ない方が良い。
数学や物理学だろうが、文学や心理学だろうが、その知識を生かすことをゼロから始めて創造し、世の中の役に立つことをしない限り、子供と同じ未熟なままだ。
これからの世の中は、スガタ・ミトラらが言ったように教師は必要なくなるが、創造してきた者は模範になる。そんな者が事実上の教師だ。
だから、学校を出て教師になったような者が最も指導者に相応しくないことが分かるし、もうそれが分かっているので、アメリカではアンスクール(非学校教育)を目標にしている。別に日本が遅れを取っている訳ではないが、それは個人の努力によってであり、既存教育がのさばり過ぎている。まあ、障害があることも、前向きに捉えれば良い面もある。例えば、吉本隆明氏が指摘していたが、ロクでもない教師は、反面教師として役に立つ。ロクでもない人間もちゃんと見ておかないと、社会の中にいる超ロクでもない人間に会った時に対処出来ない。

学校を出ても、特技は持てない。
お勉強が出来るとか、サッカーが上手いというのは、1万人に1人とか百万人に1人をいう特殊な例外を除いて特技ではない。
もっとも、そのレベルに達した者は、学校の勉強やサッカーの枠をはるかに超えていたのであり、自主的に創造活動をしていたのだ。
そんな者達は、はっきり言わなくても、学校も教師も嫌い・・・というか、邪魔だったはずなのだ。

何かを好きになるのは良いことだが、創造を開始しなければ力がつかない。力がないというのは、その点では子供と同じなのだ。
例えば、音楽が好きでも、ただ聴いていたり、いかにハードであっても練習をするだけでは駄目で、音楽を作らなくてはならない。
プログラミングに才能はなく、上手くなる者というのは、自分で考えて役に立つプログラムを創造する者なのだ。
プログラミングの勉強というのは、ほとんど必要なく、作る過程の中で必要なことを習得すれば良いのだが、あらゆることがそうだろう。
基本が大事ということもあるだろうが、実を言えば、応用しながらでないと基本は身につかないのだ。
だから、武道では、一通り基本をやったあとは(この時点では基本は身についていない)、実戦形式の練習をし、後は実戦あるのみだ。
野球のバッターでも、基本が出来ている人というのは、実戦で基本を確認し続けた人なのである。

学校や教室からさっさと離れよう。
必要なら、教わるべき人に教われば良いが、学校や教室の先生には、あまり教わらない方が良い。
教員免許ほど下らないものはない。
誰でも、やりたい者を教師にすれば良い。ただし、創造力がある者を。そうすれば、学校にも意味が出てくる。
しかし、ある小学校か中学校で、本物の技術者に授業をやらせたら、生徒は向上したが、教員免許がない者に授業をやらせたことが問題になるという馬鹿なことがあった。
教師になるのに教員免許など必要ない大学でも、「それらしい」人ばかり教員にしているが、それが、沢山の大学が潰れる原因の1つだ。
一流セールスマンを講師にして、セールスの単位でも設置すれば、学ぶことに意味も出てくるが、一流セールスマンは忙しい。
生き延びたければ、竹刀しか振ったことがない教師ではなく、真剣で戦ってきた野武士に学ぶべきである。
そんな者達は、剣術以外にも、あらゆることを知っているが、竹刀教師は剣道しか知らないものである。








  
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