クヨクヨしてはいけないが、責任放棄もいけない。
どこかの県知事が、自分が知事を務める県が台風被害に遭った時、仕事を放り出して自宅に帰り、「自宅周辺を視察していたから業務放棄でない」と言う。
明らかな責任放棄ではあるが、さりとて、自分の家が大丈夫か気になるのも分かる。
逆に言えば、自分の家が心配なのは人情であるが、知事としては責任放棄をしたということだ。

ほとんどの人が知事のような重い立場に立ったことはないが、自分の立場で、責任を果しているか、そうでないかは分かる。
心理学者の河合隼雄さんの本で見たが、不登校の子供を抱える父親が、河合さんに、「先生、子供が学校に行くスイッチってないですか?」と尋ねたらしい。
この父親は、父親としての責任を放棄している。
子供と向き合うことなく、スイッチを押すだけで済むような楽な解決策を求めているからである。

ちょっと、良寛さんの話をする。
良寛さんは子供が好きで、毎日、子供達を集めて一緒に遊んでた。
しかし、女の子達が、次々に出てこなくなった。
彼女達の家があまりに貧しく、女の子達が身売りされていったのだ。
良寛さんは、自分の無力を激しく嘆いた。
良寛さんは、「俺は子供達を可愛がっていたから責任放棄ではない」とは言わないし、「子供達が売られないスイッチはないですかね?」とも言わない。

つまり、こういうことだ。
良寛さんは子供達に関心を持っていた。関心を持つとは愛しているということだ。
一方、あの県知事は県民に関心がなかったので、県民を助ける仕事を放り出した。つまり、県民に対する愛がないのだ。
また、上に述べた、不登校の子供の父親は、自分の子供に関心がないので、向き合うつもりがなく、スイッチ(安易な手段)を求めた。つまり、子供への愛が甚だ薄い。

私はプログラマーだから分かるが、プログラミングやコンピューター、テクノロジーに関心がなく、自分の生活にだけ関心があり、プログラミングはその手段と考えているなら、良いプログラマーにはなれない。
教師であれば、子供達の成長に本当は関心がなく、自分が先生と呼ばれることや、高い給料にだけ関心がある教師は、子供達にとって害悪であり、子供達に接触すらさせてはいけない。アメリカでのアンスクール(反学校教育)の発達により、子供達の学びに教師というものが全く不要であることは分かっている。早く、教師不要の制度を整えないといけないが、不幸なことに、日本でそれを実現するのは難しい。しかし、各自でやれる世の中にはなってきた。

矢追純一さんの本で読んだが、矢追さんは小学生の時、川で溺れ、もう駄目だと思った時、「これから死ぬ」と思うと、死とはどんなものかに強い関心が湧き、ワクワクしたという。矢追さんは、世俗的なものや、自分個人よりも、根源的なものに関心があるのだ。これは、ある意味、本当の神に関心があるということになると思う。
一方、多くの人は、病気になったら病気を治すスイッチとしての医者や薬を求め、太ったら、痩せるスイッチを求める。
真理への関心、つまり、愛がないのである。それでは不幸になるのは当然である。

いずれにしろ、人気者だが、人々の生活に関心のない知事を選んだことが間違いだった。
次からは、そのことをちゃんと考えて投票しなくてはならない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加