マザー・テレサが亡くなって20年以上経って、やっと、彼女が言った「無関心が最大の敵」という意味が分かってきた。
それが分かったのは、保江邦夫さんの本で、マザー・テレサがノートルダム清心女子大学の学生達に、「愛の反対は何だと思いますか?」と尋ね、多くの学生達が「憎しみ」と答えた時、「憎しみは愛の一部。愛の反対は無関心」と話したというエピソードを見たのがきっかけで、頭で考えて理屈で分かったのではなく、時間が経って、少しずつ分かってきたのだ。

愛の反対が無関心であるなら、愛とは、関心であり、興味、好奇心のことだ。
イエスが、「君の周囲の人を愛しなさい」と言ったのは、「君の周囲の人に関心を持ちなさい」ということだ。
しかし、日本では、いかなる身近な人にも無関心な人が蔓延している。

ただ、関心、興味、好奇心と言っても、美味しい食べ物、性的魅力が高い異性(あるいは同性)、ゴシップ話への好奇心は、ほとんどの場合、欲望であって、愛ではない。
また、優越感を持つことへの興味もそうだ。
ところがなんと、今の日本人は、こういったものにしか関心がなく、それはつまり、欲望ばかりで、愛というものをまるで持っていないのだ。

だが、いくらマザー・テレサやイエスが「人々に関心を持ちなさい」と言っても、無理に周囲の人に関心を持つことは出来ない。
そして、これが事実なのだが、愛を持たない者には、宇宙に偏在する「力」は味方になってくれない。
愛があれば、健康にもなるし、必要なお金は楽々得られるが、愛がなければ、病気にもなるし、お金にも窮する。
こう言えば、「病人というのは愛がないのか」と非難されそうだが、それは極端論というものだ。
しかし、こんなことは言える。
病気になれば、いろいろなものへの関心が高まり、愛を沢山持つようになる。

ところで、何かに愛を持てば、つまり、何でもいいから、何かに興味、好奇心、関心を持てば、それは、愛を持つことであり、宇宙、世界が味方してくれるようになる・・・早い話が、運が良くなる。
では、どうやれば興味を持てるかというと、ここでも、「逆を成り立たせる」方式が有効になる。
つまり、興味や好奇心があるものに対して何をするかを考え、その何かをやれば良いのである。
そこで、「関心がある」「興味がある」「好奇心がある」を言い換えれば「好き」であることに着目し、好きならどうするかを考えると、次の通りと思う。
「じっと見る」
「じっと黙って聞く」
「優しく触る」
私の場合で言えば、鳩や亀が好きなので、じっと見ていると楽しいし、カラスだって嫌いではないから、姿は見えなくても、カラスが鳴いているとじっと聞き惚れる。
林檎だって、そっと触れると、愛しさが溢れてくる。
親しいおばさんなどが犬を連れていると、触らせてもらうと、やはり、その犬に対する強い興味が起こる。

中学の時の国語の教科書に載っていた詩の中で、果物のミカンに対し、「どこから見ても美しい」と言っているのを見て、その詩人の視点がイメージ出来た。詩人は、ミカンを、じっと見たのだ。
それを詩人は、「新たな目で見る」と表現していた。
新たな目で見るとは、頭を空っぽにして、じーっと見ることである。
『フランダースの犬』のネルロ(ネロ)が、ルーベンスの絵を見ていた時が、そんなふうに見ていたと思えるのだ。

それで、考えたのだが、「新たな目で見る」とは、ぼーっとしてはいるが、視線を逸らさず見ることであるのだと思う。

少しでも視線を逸らしちゃダメダメよ☆
~『ルカルカ★ナイトフィーバー』(作詞・作曲・編曲:samfree。唄:巡音ルカ)より~

そんな感じであると思う。
ネルロだって、死ぬまで、ルーベンスの絵から視線を逸らさなかったはずだ。
そこまででなくても、何も考えなければ、じっと見ていられるものは少なくないと思う。
下手な瞑想などより、そういったことをやった方がはるかに良いと思う。
ぼーっと、だが、じーっと見ると、汚れた壁だって美しいのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ