人間は、自分を高く評価し、他人を低く評価する。
本質的に例外の人間はいない。
どんな愚か者であっても、自分は大抵の人よりはずっと上だと思っているのだ。

そして、ほとんどの人間は愚かなのであるが、実を言うと、愚かな人間ほど、自分は優れていると思っているのである。
昨今、自己評価が低いことが問題であるように言われるが、おそらく見当違いだ。
自己肯定感が低いと言われる人間だって、本当は法外に自分を高く評価していると思う。
自己評価が低いのではなく、他人が自分を軽んじることに敏感なだけと思う。

かなり優れた人間の自己評価は、概ね、「中の上」である。
そして、最高度の人間の自己評価は、ほぼゼロなのだ。
それを老子は、「賢者は水のように、最も低い場所で満足している」と表現しているのだと思う。
また、老子は、「みんな鋭いのに、私だけ鈍い」とも書いている。
別に、謙遜でも何でもない。それが本音なのだ。
むしろ、嘘の謙虚さは不自然で醜い。
そして、本当のところ、謙虚さなど無用である。
おそらく、人間は、脳の構造上、謙虚になるには向いていない。
だが、自己評価を高めるほど、馬鹿になる構造ではあるようだ。

イギリスの作家チェスタートンが「天使が飛べるのは自分が軽いと思っているからだ」と書いたらしい。
"Angels can fly because they can take themselves lightly."
これは、体重のことではなく、自己評価である。
そりゃそうだ。天使ってのは、自我がないのだから、自分を高く評価しようがない。
自己評価を行うのは自我であり、自我は、必ずや自分を高く評価するのである。
自我を絵に描けば、これほど醜悪で間抜けで馬鹿げたものはない。
そして、「自分は優れている」と言う者ほど、そんなつまらぬものを大事にしているのである。

では、自我を消すにはどうすれば良いか?
柳生宗矩が、子供の時の徳川家光に教えたのは、1本の杭の頭を、木刀で毎日、延々と打つことだった。
延々と丁寧にやれば、ゾーンに入れる。
ゾーンは、エクスタシー・・・即ち、忘我、没我であり、文字通り我はない。
バットや木刀の素振りでも、四股でも、念仏でも、真言でも良い。
呼吸を数えても良い。
丁寧に延々と出来れば・・・
要は、何も考えないことだ。
最も考えない者が、最もよく考えているのである。
スーパーコンピューターに接続された端末パソコンが、スーパーコンピューターのインターフェース(入出力装置)に徹し、自分では処理をしないようなものである。
それが、自分の小さな思考を捨て、神の英知を得る方法である。
宇宙コンピューターから見れば、人類のスーパーコンピューターなど、利口なサルですらない。
人間は、自我を消せば、それにつながるのである。








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