皆、なりたいものがいろいろあり、その中には、なるのが非常に難しいものもあるだろう。
しかし、大抵は、ダライ・ラマになるよりは易しいに違いない。
そもそも、ダライ・ラマはずっと同じ魂の持ち主でなければならず、ダライ・ラマが亡くなると、その魂が転生した子供を見つけてダライ・ラマにするのだと言われている。
だが、物理学者で武術家の保江邦夫さんの著書『祈りが護る國 アラヒトガミの霊力をふたたび』の15ページを見ると、現ダライ・ラマのダライ・ラマ14世自身が、事実上、それを否定し、ダライ・ラマになるには、条件を満たせばよく、条件を満たせば、誰でも良いのだというふうに読み取れる。
その条件とは、
「皆が、その子がダライ・ラマの魂を受け継いだと信じ、その子がダライ・ラマの生活・生き方を始める」
である。
ダライ・ラマなら、確かに、「皆が信じる」という部分が必要であるが、あくまで「信じる」だけで、本当かどうかは、どうでも良いのである。
また、保江さんは、それは事実上天皇家でなければ無理ではあるが、天皇もそれと同じで、現人神として育てられることが大切なのであると書かれ、やはり、本当は誰でも良いのだというふうに読める。
そして、私は全くそう思う。
ダライ・ラマや天皇というのは、あまりに特別で、我々がなることはないが、本質的なことを言うなら、なれない訳ではないのである。
いかなるものになるにも、必要なことは、生き方だけである。それは、態度、振る舞いと言って良いと思う。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、師に「あなたは至高の実在である」と言われ、その言葉を覚えていたので、修行は何もしなかったが数年で悟りを開いた。
これも、その言葉を覚えていることで、至高の実在らしい生き方をした・・・そういう態度をし、振る舞ったのである。
そして、マハラジ自身がそう言ったらしいのだ。
「時空(時間と空間)を超えた存在として振る舞え」
と。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』の5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、4歳の時、大学予備校で教師に見せられたアルファベットを「解らない」と言ったら、教師に、「そんな態度ではいけない。チャンと解っているという態度をしなさい」と言われた。
スポールディングは、それに従ったので、14歳で名門大学に入り、物理学者として高い業績を収めたという。
優れた指導者は、皆、同じことを言っているように思う。
即ち、「態度は事実より重要」だと。
少し前の本だが、ひろさちやさんの『空海入門』が、それを主題として書かれている。
『徒然草』にあるように、狂人として振る舞えば、即ち、狂人だ。
しかし、同じように、仏陀の真似をすれば仏陀なのである。
仏陀らしく歩き、仏陀らしく話し、仏陀らしくメシを食えば、それで仏陀である。
空海は実に、仏陀になりきった人というだけなのである。








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