ダライ・ラマについて、よくは知らなくても、ほとんどの人が、「何か非常に畏れ多い、重い何か」といった感じのイメージを持っているのではないかと思う。
正式には「ダライ・ラマ法王」であり、チベット仏教の最高位にしてチベットの象徴であり、少し前までは、チベットの元首とも見なされていた。
無茶苦茶偉いというか、大変な権威であるのだと思う。
ところで、現在のダライ・ラマは14世であるが、ダライ・ラマは日本の天皇のような世襲制ではなく、ローマ法王のように何らかの意味で優れているから選ばれた訳でもない。
私は昔、何かの本で(丹波哲郎さんの本だったかもしれない)、ダライ・ラマ継承について読んだことがあったが、Wikipediaに書かれていることも、ほぼ同じだ。
簡単に言うが、ダライ・ラマが死ぬと、死んだダライ・ラマの生まれ変わりを見つけ、その者が本当に生まれ変わりであるかを、前世のダライ・ラマしか知らないことを尋ねるなどで厳重にテストし、確かにダライ・ラマの生まれ変わりであると確認したら、引き取ってダライ・ラマとして育てるのである。
ところが、物理学者の保江邦夫さんの著書『祈りが護る国 アラヒトガミの霊力をふたたび』という本の14ページに、こんな話が書かれていた。
日本に来ていたダライ・ラマに、一般の人が、この継承の話は本当かと尋ねたらしい。
勝手な推測だが、チベットでそんなことを言ったらタダでは済むまい。死刑と言われても驚かない。
ところが、ダライ・ラマは、その質問に笑って、明確に「嘘」と言ったのではないと思うが、「どうでもいいこと」「誰でもいい」といった意味のことを言ったらしい。
チベット仏教は嫌いではないが、権威なんてものは感じていない私にも、これは、なかなかの衝撃だった。
さらに、保江さんの書いたニュアンスを無視して言うなら、それは、天皇も同じなのだと言う(ただし、保江さんは天皇をこの上なく敬っている)。

つまり、あくまで保江さんの本によればであるが、全ては「育ち」なのである。
そして、それは、私も大いに納得した。
人気漫画家集団CLAMPとプロダクションI.G原作のアニメ『BLOOD-C(ブラッド・シー)』は、「人は生まれか、育ちか?」で始まり、この作品は、それを確認する壮大な物語なのであり、私は、この作品のテレビアニメの部分しか見ていないので、作品としての結論は知らないが、気にはなっている。
劇場版が、DVD/Blu-rayでしか見れないが、買うほどでもないと思ったし、小説も、時間をかけて読むほどでもないと思うからだが、面白い作品だし、テーマは良い。だが、やはり、作品としては、私としては残念なものであると思う。

やはり、人間は、生まれではなく、育ちなのである。
もっと言えば、教育である。
そして、「育てられた、あるいは、教育された通りの人間になる」のだから、好ましい感じはしないが、教育とは「洗脳」であると言っても間違いではない。
偉い教育者が「教育とは偏見を与えること」と言ったという話があったが、全くその通りである。
思想、信念は、教育によって持たされてしまった偏見、あるいは、幻想である。
そして、人間の精神面の大きな部分は、子供の時の育ちで決まり、後で自力で変えることは難しい。ひょっとしたら、それは(大人になってから精神的傾向を変えること)出来そうに思えるだけで不可能なのかもしれない。

だが、私は、自分で自分の精神を変えることは可能であると確信する。
大人になってからでも、全くの別人に生まれ変わることなんて、ありふれてはいないながらも、いくらでもあると思う。
それは、コンピューターのデータを書き換えるようなもので、権限と手順が分かれば、難しいことではない。
そして、いきなり結論を言うなら、「私は魔法使いである」という信念に替えれば魔法使いになる。
イギリスの作家コリン・ウィルソンは、H.G.ウェルズの『ポーリー氏の生涯』(未翻訳)の中にあるらしい、「人生が気に入らなければ替えてしまえばいい」という言葉を座右の銘にしていたようだが、そのためには、信念を替えれば良いのである。
ただ、そのための怪しげで有害な方法が巷に溢れているので、注意深くあらねばならないが、そんな判別は、本来は難しくないと思う。








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