2400年ほど前の中国の賢者、荘子は、古代人が格段に賢かったと言う。
その理由は、古代人は、ものごとを区別せず、全て同じと見ていたからだ。
やがて、人間は、ものごとを区別するようになって、1つ馬鹿になった。
さらに時が経ち、区別だけでなく、優劣をつけるようになり、それで人間は限りない馬鹿への道を転げ落ちていく。
これは、1人の人間にもあてはまる。
小さい時は、友達の家が豪邸でもあばら家でも、全く気にしない。
しかし、そのうち、「あの子の家はお金持ち、この子の家は貧乏」と認識するが、それだけのことだ。
だが、もっと大きくなると、お金持ちの家が「立派な家」で、貧乏な家は「駄目な家」と思い(実際は「思わせられる」だが)、お金持ちの家の子を羨んだり、反発したり、貧乏な家の子を馬鹿にしたり、哀れむようになる。

こう言うと、「では、人類は原始的なままが良いのか?個人としても幼いままが良いのか?」と異を唱える者もるだろう。
しかし、古代人は、本当の区別は我々以上についていたし、我々以上に本当に優れているものが解っていたのだ。
つまり、左脳で考えず、右脳で考えてたのだ。

ピアノが弾ける、英会話が出来る、科学や数学が解る、プログラミングが出来る・・・そうであっても、だからといって自分が偉い訳でないと解っているなら、賢い。
しかし、そんな美点があるから自分は他の者より優れていると思うなら、ただの馬鹿である。
まして、背が高い、スタイルが良い、顔が良い、親が社長だ・・・など、自分の本質と関係ないことを自慢したり、プライドを持っている者は、救いようがない。

昔、政治学者(後の政治家)のM氏が、冗談だったのか本気だったのか分からないが、「僕は東大卒だから優秀」と、露骨には言わなかったかもしれないが、そうほのめかすことがよくあったが、その時、皆に馬鹿にされていたのだ。
そんな者が馬鹿であることくらいは、内なる古代人の知恵で、誰にでも分かるのである。
また、それが彼の本意でなかったとしても、そう受け取られる発言をするだけでも、少なくとも、彼は賢い人ではない。
そして、確かに彼は、最後はおかしなことになってしまった。
言い訳はしていたが、あくまで、言い訳である。自分は馬鹿な駄目人間と認めれば、「ああ、この人、賢くなったなあ」と解る人には解るのに・・・

時々、テレビなどでも、世間で一流と言われる学校の生徒や大学の学生が、自分達は優秀なエリートである自覚がある様子を見せることがあるが、やはり、そんな者達は、「高慢」とか、「鼻持ちならない」以前に、単なる馬鹿なのである。
あくまで昔の話だが、東大生に「頭が良い人間5人」は誰だと思うかとアンケートを取ったら、ノイマンら歴史上の天才と共に自分を上げる「大馬鹿」が半分以上いたという。たとえ冗談で答えたとしても、相当な馬鹿だが、本気で答えているなら、もはや哀れだ。
一番賢い答は、「頭の良い人間などいない」であると思う。

ところで今は、劣等感による自己否定が問題になっているらしい。
区別をやめるか、せめて、優劣を考えなくなれば、そんなことは起こらない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加