ほぼ2年前の2017年8月1日に、こんなことを書いた。

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1967年に放送された『剣』という時代劇の第1話『天下一の剣豪』で、丹波哲郎演じる戸沢一刀斉は、天下にその名が鳴り響く日本一の剣豪だった。
ところが、戸沢一刀斉を名乗る偽物が現れ、そのネームバリューで若い娘を誘惑し、面談料やサインで儲けるなど、やりたい放題だった。
ある時、なんと、一刀斉本人が宿泊した宿に、その偽物がいて、そこでも、姫様を弄び、サイン入りグッズを販売していた。
ところが、一刀斉の門下の剣士達が、「懲らしめてやりましょうか?」と言うと、なぜか、一刀斉は、「捨ておけ」と言う。
一刀斉は心で想う。
「あれは俺だ。俺も、本当は、あんなことをしたいのだ。あいつは、俺の代わりに、それをやってくれているのだ」
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一刀斉は、日々節制し、トレーニングに励み、ストイックに生きていたのだろう。
それだけでなく、常に得たいの知れぬ強豪武芸者と戦い続ける運命であり、しかも、必ず勝たねばならないプレッシャーに耐え続けている。
若い娘といちゃついている暇はないが、本当は、自分もそんなことをしたい。
すると、自分の名を騙(かた)って(だますこと)、きれいな姫様と温泉入浴している悪いやつがいた。
それを見て一刀斉は、「あれは俺」と思ったのだ。
そして、実際そうなのだ。
悪いやつ、いやなやつほど自分に似ていると思わないだろうか?
あるいは、誰かが人の悪口を言っているのを聴くと、間違いなく、その者は自分の悪口を言っているようにしか聴こえないものなのだ。
「あの人は本当にいい加減だ」と言う者は、その者自身が全くいい加減なのである。
逆もまたそうなのだ。
「あの人は本当に人格者だなあ」としみじみ言っている人がいたが、そう言っている人が、本当に人格者なのだ。
つまり、人間には、自分にある美点、あるいは、欠点しか、他人の中に見ることは出来ないのである。

一刀斉の「あいつは俺」は、正にその通りなのだが、俺でないあいつもいない。
他人というものは存在しない。
そして、悪いやつにしろ、善いやつにしろ、気になるあいつほど自分に近く、融合出来るのである。元々1つな上、波長が近いからだ。
凄い美人女子高生と親しげに歩いている男子高校生がいて、私はふと、彼と融合したが、別におかしな感じはない。最初から同じ者だからだ。
そして、彼が、その子を全然女だと思っていないのも、意外でも何でもない。そんなこと、初めから解っているのだからだ。
女の子の方と融合することもあるが、その時のことは、一瞬、夢でも見ていたようで、ほとんど覚えていない。多分、覚えているとやり切れないことが多いと思うので、うまく忘れるようになっているのだろう。
また、私は、よく、犬や猫や鳩やカラスや亀を見て、「可愛いなあ」と思のだが、そうすると、やはり、すっと融合する。
量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが『聖なる量子力学9つの旅』で、鷹と融合した時のことを書いていて、私は、その時のこと(動物と融合した時のこと)を、やはりほとんど記憶していないが、それでも、大体、あんな感じだったということを微かに覚えている。
ロバート・モンローが『魂の体外旅行』で、狼や鳥などと次々融合する話を書いていたと思うが、とても生き生きと書かれているせいか、私が動物と融合した時のことを思い出すような気がした。
そして、私自身、ふとちょっと変わった思いが浮かぶ時、肉体的には別の誰かと融合した(融合された)のだということが解るが、それは、別に嫌なことでも何でもない。繰り返すが、元々一体なのであるから、何の支障もない。
そして、融合体験は非常に良いものであるが、最近は、自分の殻に閉じこもり、他者と一体にならず、狭い狭い世界を生きている者が多い。
LINEでつながっているつもりになっている者の中に、そんな「真正ぼっち」が多いのである。









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