最近、書店に行って気になるのは、「自己肯定感を高める」という本がやたら多いことだ。
今、Amazonで「自己肯定感」で検索したら541件もヒットし、その多くが、「簡単に自己肯定感を得られる」といった感じのものだ。
だが、世の中は、「それ以上、自己肯定感を持ってどうする?」と言いたい人達がやたら多い。

自己肯定感を持つには、戦って勝つしかないのだが、今年の東大の入学式で、「君達が東大に入れたのは、頑張ったからじゃなく、恵まれていたからだ」と、やっと直球で本当のことを言ってくれる人がいた。つまり、ある意味、反則で勝ったようなものなのだ。
ある高校生が、募金箱の上で自分の財布をひっくり返し、中身を全部入れて満足げだったが、それは自分で稼いだ金でないので、大切にしなければならない。親の金を使っているだけで、何かやっている気になるのは愚か者である。
要するに、戦って勝つと言っても、自分で力で戦わなければならないということだ。
そうでないと、健全な自己肯定感ではない、幼児性退行による万能感・・・つまり、幼児が、自分を神様か王様のように思うレベルに陥ってしまう。
母親が面倒を見てくれるのは、赤ん坊が神様や王様であるからではないが、赤ん坊の方は、無意識にそう感じるものらしく、大きくなってもそれを引きずると、愚か者の出来上がりである。

あるいは、自己肯定感を得るために、過激な承認欲求を満足させたがると、即座に人格崩壊の危機につながる。
レディー・ガガらの「Me Too」運動は、決してそれを否定するのではないが、もう少し穏便にやらないと、参加者達は、一時的な満足感はあっても、結局、もっと不幸になるのではと感じるのである。

「さすが俺」なんて自己肯定感を持ってはならない。
謙虚とは、自己否定しながら、ちゃんとやれる人間が持つ貴いものだ。
そりゃ、「俺もなかなかやるな」「私って出来る子なんだ」って思うのは気分が良い。
しかし、それは、近寄って来た悪魔のささやきなのだ。
それよりは、自分のいたらない点に目をやり、「もっと上」「もっと強く」と悩む方が良い。
一見、劣等感で苦しんでいる者は、実は、「俺は凄いのに、どうしてこいつらは分からないのか」という承認欲求に苦しんでいるだけなのだ。
つまり、傲慢さこそ問題なのである。
無論、極端な例外はあるだろうが、そうではない場合が多い。

自分の技量を認めるのは悪いことではないが、それを静かに出来ないのであれば、ただの自惚れだ。
そして、自己否定を抱えていても良いから(実際には、自己否定を捨てることは出来ない)、理想に向かう道を見つけた時に、健全な自己肯定感を持てる。

私は、イチローがいつまでも素振りやストレッチをやったり、木村達雄さんという武術の達人で東大を出た数学の博士が1日に何千回も四股を踏むって話を見ると、つくづく、彼らは自己否定感が強いのだと思う。でないと、そんなことはやれない。
彼らは決して「さすが俺」「私ってすごい」とは思っていない。
親鸞が念仏を唱えていたのも、岡潔博士という世界でも屈指の数学者が毎朝1時間念仏を唱えていたのも、やっぱり自己否定感のためだ。
私がプログラミングをマスター出来たのも、今、四股を踏むのが楽しいのも、自己否定感の賜物である。
私が、『ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか』のヒロイン、美しき「剣姫(けんき)」アイズ・ヴァレンシュタインが好きなのも、彼女が自分の技量に決して満足せず、むしろ、自己否定感を抱えているからだと思う。









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