宗教は、謙虚さと敬いがあれば良いものになるが、傲慢と蔑みがあるとロクなものにならない。
あるいは、本来の宗教は、謙虚さと敬いを育てるものだが、傲慢と蔑みの心を育てる宗教が多くなってしまった。
いや、芸術や科学も、本来、学べば学ぶほど、謙虚で敬いの心を持つようになるはずだが、学位が上がるにつれて傲慢と蔑みの心を持つ愚か者が多いのだろう。
何かが間違っているのである。
その何かとは、命の誤用で、早い話が、利益優先でやれば、必ずそうなる。

だから、無条件で、芸術や科学や宗教を良いものと思っている人は少ない、もしくは、まずいない。
本来、念仏や神の名の称名を行えば、自然、良い人生になるものだが、そういった「宗教臭い」行いに抵抗を感じてしまうことが多い。
私も、夜、寝ながら念仏を唱えることが楽しみで仕方がなかったこともあったが、いろんな法事でお坊様の口上を聴くと、途端に念仏嫌いになるのはなぜだろう?(笑)
あるいは、宗教家が書い宗教の本などを読むと、もう全然、念仏を唱える気がしなくなる。あるいは、経典を読む気もなくなる。
『歎異抄』は少しも宗教臭くないので好きだが、これも、宗教家が解説したものを読んだら、嫌いになる可能性が高い・・・いや、嫌いになったことがある。

発明家で能力開発のスペシャリストであった中山正和さんのように、般若心経の呪文を、単に妄想を切る手段として使う手もありとしたように、念仏や神の名も使えるかというと、使えない。それらは、観念や感情の雑味を呼び起こすからである。
そこで、ラジカル(主に政治用語の急進性の意味。化学用語のフリーラジカルだと印象が悪い)という訳ではないが、精神に良い作用を与える言葉として、「神」「私」があるということを知っていると役に立つかもしれない。
「なんとかの神」と言うと宗教であるが、「神」と言うと、これも人それぞれだが、「宇宙の意思」に近い意味に感じられる。
宇宙の意思は、無人格という訳ではないが、人間の人格とは差があり過ぎるので、人格がないように感じるのである。
つまり、神が各国の神話に出てくるような程度の低い心を持っている訳がないではないかとうことだ。
宇宙に何らかの意思があることは、何となく、あるいは、微かに感じるのである。
それも感じないと断言する者が、スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルのような無神論者になるように思う。
カーツワイルは「神は存在しない。しかし、やがて生まれる」と言う。つまり、未来の進化した人間が神なのである。
不遜の極みと思うかもしれないが、それはそれでアリである。
もし、彼らほど徹底してはおらず、神を畏れる気持ちがあるなら、丁寧に「神」という言葉を声、あるいは、心で唱えれば、その威力に驚くことになる。
だが、「神」を呪文にしてはいけない。
一時に一度、真摯に唱えるのである。
呪文というか真言にしたければ「私」を使うことが奨められるかもしれない。
ラマナ・マハルシは、ラーマやクリシュナの名を唱えるように、「私」と唱えても良いと言っていたようだ。
「私」こそが神の名であるのだ。
だから、最上の真言は「私」であり、インドで聖音と言われる「オーム」に優るものであるとも言う。

「神」と一度だけ、出来る限り丁寧に唱え、後はずっと「私」と唱えるという方法である。
ただ、「私」もやはり丁寧に唱えるに越したことはなく、私流には、心の中で微かな声で唱えるのだが、難しければ、呼吸を微かにして心で唱えると良い。
これだけ覚えておけば、まず・・・いや、全く心配はないだろう。









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