今でもいるのだと思うが、自動車やバイクのマフラー(排気音を低減する装置)に手を加えることで、大きな音を出して走る者がいるが、なぜ、そんなことをするのかと言うと、自己承認欲求・・・つまり、他人から認められたいという欲求のためである。
そんな馬鹿げたことで認められたいと思う理由は2つ。

(1)能力で人に優るものが何もないので、そんなことで自己主張するしかない。
(2)自分では人に優るものを持っていると妄想しているが、所詮妄想なので本当の自信がなく、単純で分かり易いことで自己主張したい。

こうに言って良いだろう。
哀れな話であるが、愚かな人間の特徴は、この2つを原因とする「騒がしさ」であり、騒がしい人間は、この2つを重く抱えた惨めな人間である。
例えば、「道路族」と呼ばれる、主に住宅地の道路で、子供と一緒になってボール遊びなどをして近隣に迷惑をかけている大人がいるが、なぜ道路族が迷惑なのかというと、異常に煩(うるさ)いからであり、実は、彼らは、上記の2つの理由で、わざと騒音を立てて騒いでいるのである。
迷惑になるほど騒ぐことで「俺って偉い」と思いたい・・・そんなことで「俺って偉い」と思わないと、自分が無価値に思えてしまうし、実際に無価値なのである。
だから、道路族に、騒ぐのをやめるよう注意すると、必ず猛烈な反発に遭う。
彼らは、それが、自分に値打ちがあることを実感出来る、ほとんど唯一のことなのだからだ。
尚、子供だけで騒ぐ道路族もいるらしいが、本当の問題は、その子供の親である。
親が、そんな下らないことでしか自己主張出来ず、いつも子供の前でそうやっているから、子供が真似しているのである。さらに、そんな劣等感の塊の親は、子供が注意されたら、自分の価値が貶められたと感じ、猛然と反発するのである。なんとも始末に負えない。

昔から、電車の中で、大股を広げたり、脚を伸ばして座席に座って迷惑をかける男は沢山いるが、最近、特に増えてきた。
その理由も、まさに上記の2つで、やはり、そんなことでしか自己主張出来ないのである。
「よくここまでだらしない座り方が出来るものだ」と、妙に感心してしまうほど、凄まじく乱れた座り方をする者が、若者から老人まで本当に多いが、それが彼らの劣等感の強さを示しているのであり、哀れむべき面もあるのかもしれない。
面白いのは、私は比較的脚が長く、きちんと座っても人様に迷惑をかけるのが心苦しいのだが、私の隣に座った男の多くが、せいいっぱい腰を前にずらして、私と同じ位置まで膝を前に出すのである。
「俺だって、お前と同じくらい、いや、もっと脚が長いのだぞ」と必死でアピールしているのと、人様に迷惑をかけることが自分の値打ちだというおかしな感覚を持っているのだろう。
劣等感に凝り固まった男がいる限り、電車の中での大股広げ(大抵、彼らの脚は短いが)やふんぞり返っただらしない座り方の流行(?)はなくならない。
ロシアだったか、電車の中で股を広げて座る男の股間に水をかける女子大生のことをニュースで見たが、それに対し、SNSで、「よくやった」と称賛する声と共に、「俺がやられたら殴ってやる」と投稿する男もいたらしいが、「殴ってやる」という男の劣等感を舐めてはならず、下手したら本当に殴られる。弱い男ほど、自分より弱いと思える者(女子供)に対して暴力的なものだ。
児童虐待も、問題の根っこは親の劣等感による自己主張だ。子供をいたぶることで自分が偉いと思うしかない親が子供を虐待するのである。

私は毎朝、会社近くの駅のベンチに座り、スマホで初音ミクさんの音楽を聴きながら読書をしている。
割と広いベンチだからだ。
ところが、そうしていると、私の妙なほど近くを、足音を響かせながら歩き過ぎる者がよくいる。
もうお分かりだろう。
それが、彼らの自己主張・・・自己承認欲求を満足させるための、彼らに出来るせいいっぱいの行為なのである。
他に人に優るものが何もない心の痛みを癒すための、切実な補償行為なのだ。
本当に偉い人は、常に、足音を立てないように静かに歩くものである。

本当に価値のある人間になりたければ、静かであることだ。
無駄なおしゃべりをせず、静かに歩き、音を立てないよう物を丁寧に扱い、ドアの開け閉めの音にも気を使い、そして、最高の価値を得たいなら、呼吸まで静かにせよ。
「そんな目立たないでいたら、いるのかいないのか分からない、自己主張のない者として見下される」なんて言う者がきっといるだろう。
そんな者には、なるべく関わりたくないというのが本音である。
かくいう私も、まだまだ、「惨めな自己主張」が多いに違いない。
だが、真に偉大な人間は空気のようであることを忘れないでいよう。
サミュエル・スマイルズは「天は自分を助ける者を助ける」と言うが、そんな言葉が実際に人を幸せにすることはなかった。
正しくは、「天は静かにしている者を助ける」である。
なるほど、騒がしくしていれば、悪魔にとり憑かれた愚か者が同調してくれるかもしれない。
だが、私は小物の悪魔の手先になるのはまっぴらである。









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