吉本隆明さんの『今に生きる親鸞』に書かれていた、親鸞の師である法然の念仏に対する姿勢には、良いか悪いかは分からないが(常識的には悪いだろうが)憧れてしまう。
その姿勢とは、「とにかく、念仏さえすれば良い」で、念仏が第一であり、他のことはどうでも良いというものだ。
嗚呼、清々しい・・・(笑)
「働いているから念仏が出来ないなら、誰かの世話になって念仏せよ」
「人の世話になっているから念仏が出来ないなら、働いて念仏せよ」
「独身だから念仏が出来ないなら、結婚して念仏せよ」
「結婚したら念仏出来ないなら、独身で念仏せよ」
法然は馬鹿ではない。
それどころか、子供の頃から神童と呼ばれ、しかも、長年月、熱心に励んで仏典を極め、いかなる名僧・高僧も、法然と話せば、その知恵と知識に敬服した。
それでも法然は、自分は愚かであるという謙虚さも揺るぎなく、まさに理想の僧であった。
しかし、念仏に関しては上のように徹底していた。

念仏さえすれば、ニートでも良く、念仏することに比べれば、そんなことは些細なことなのだ。
親鸞は、僧の戒律を破って妻帯し、肉食をしたが、法然は、それで念仏出来るなら、それで良いと認めた。
では、「私は泥棒しなければ念仏出来ません」とか、「隣の家の美しい奥さんをどうにかしなければ念仏出来ません」などと言われたら、それでも法然は、「ではそうしなさい」と言うだろうか?
だが、これに関しては、沢山の聖賢達が答を出している。
特に、『歎異抄』の中で、親鸞が明解に答えている。
そういったことは、縁(因果因縁)の問題であり、やろうと思って出来ることではない。あるいは、やりたくないと思っても、それが因果であればやってしまう。
伝説によれば、法然は娼婦に、救われるにはこんな仕事は止めないといけないかと問われ、「罪深いことだから止めるに越したことはない。だが、それが出来ないなら、そのままで良いから念仏をしなさい」と答えている。
ラマナ・マハルシは、隣の奥さんが魅力的過ぎてたまらないという男に対し、「間違いを起こしても後悔するな」と言ったらしい。マハルシもまた、カルマ(因果)には逆らえないことをよく知っているのだ。
だが、念仏を唱えていれば、悪いようにはならない。
やはり、念仏に比べれば、他のことは大したことではなく、念仏さえ唱えていれば良い。
このくらいの信念、思い切りがなければ本物ではない。

親鸞の考えは、法然とは違った部分もあったことは間違いない。
法然は、念仏を唱えさえすれば良いと教えたが、親鸞に関しては、いろんな本を読んだり、お坊様の話も聞いたが、それらの話は、どこかふにゃふにゃして解り難い。
しかし、親鸞の教えは、簡単に言えば、「念仏を唱えようと思いさえすれば良い」ということになると思う。
なぜなら、それならよく解るからだ。
いくら念仏が良いと言われても、本当にしっかり唱えられる者は、そんなに多くないはずだ。
親鸞は、それをよく知っていたのだろう。
名僧、一休は、法然や親鸞に対する篤い尊敬の念を持っていた。
しかし、念仏に関しては、新しい解釈を示した。
時代は変わるのだ。
仏は心の中にいるのであり(「心そのものが仏である」と言ったらしいが、それでは解り難いし誤解し易い)、念仏は、それを表に出す手段である。
それは、科学的、論理的に正しい。
念仏とは、自分より高位の存在を認め、それに頼ることであるが、その高位の存在は、どこか遠くにいるのではなく、自分の内側(心と言って良い)に存在するのである。
それは、深層心理学、分子生物学、量子物理学の正しい考え方と矛盾しないと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
↓Social Network Service
このエントリーをはてなブックマークに追加