人間は、「私は○○だから大丈夫」という公式を持てば、秘めた力を発揮出来る。
それは愉快なほどだ。
多くの成功した人達は、このことを、
「大丈夫」
「だから大丈夫」
「ストーリーを持った人間は強い」
と、バラバラに言うので、普通の人は効果を出せない。
だが、これらを合わせて、「私は○○だから大丈夫」というルールを確立すれば力が湧き出る。
○○の部分は何でも良い。
「私は東大卒だから大丈夫」
「私は毎日聖書を読んでいるから大丈夫」
「私は××家の出身だから大丈夫」
「私は(手相の)生命線がつながっているから大丈夫」
こじつけだろうが、全く構わない。
勝利者はこじつけがうまいという事実すらある。
著名な心理学者の河合隼雄氏は、「死んだらみんな月に行くのだから、みんなとまた会えるから大丈夫」と言う女子小学生のことを誉めていたことがあった。
もちろん、この子の公式(河合氏は「ストーリー」と表現)は変わっていくのだろうが、その時はその時で、別の何かを持てば良いのである。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が好きだったという、こんな話がある。
ある若者は仙人になりたがっていた。
そこで、ある男が「自分は仙人になる方法を知っている」と嘘を言って若者を騙し、それをいつか教えてやるからと言って、若者をいいように使っていた。
若者が「いい加減、教えて下さい」と言うと、騙していた男は、若者を木に登らせ、高い枝にぶら下がるよう言い、若者は従った。
そして、若者は「手を離せば仙人になれる」と言われ、躊躇なく手を離すと、仙人になって、自分を騙したはずの男に感謝しながら飛んで行った。
言うまでもなく象徴的な話だが、邪念のない信念は奇跡だって起こす。

ただ、ほとんどの「私は○○だから大丈夫」という公式は、世間や他人によって壊される。
「俺は東大卒だから大丈夫」と思ってても、遅かれ早かれ、そんなものは大したものでないことを教えられる。
ただ、本人さえ、揺るぎなく、この公式を保ち続ければ大丈夫なのだが、それは極めて難しい。
なぜなら、ほとんどの人間が作る公式は、過去に由来し、それは「形だけのもの」「死んだもの」だからだ。
「私は東大卒」と言っても、東大に入って卒業したのは、大抵は20代前半の若い時であり、時が経ってしまえば、それはもう、色褪せた死んだ過去だ。
だが、「私は毎日聖書を読んでいる」なら、それは今のことであり、生命力があって、自分に力を与えてくれる。
インドでは、神の名を唱える「ナーマスマラナ」の伝統の行法に従って、神の名(インドでは、ラーマやクリシュナなどが人気がある)を常に唱える者は、階層に関係なく、不思議に幸運に恵まれ、災難を回避している。
日本では、それは念仏という形で生き続けているが、昔から実践者は少ないので、不幸が多い。
「神の名を唱えているから大丈夫」「念仏を唱えているから大丈夫」は、今でも、科学的に十分な範囲で説明出来ると思う。
無論、科学とは関係なく、伝統的、あるいは、宗教的、あるいは、直感的に捉えて、公式を確立すれば、確実に力を得る。
念仏と言っても、「南無妙法蓮華経」のように、神仏の名ではなく経典の名を唱えるのでも良い。経典は仏そのものであるからだ。
宗教的という部分もあるかもしれないが、これなら、お金はかからないし、悪い宗教に騙されない。

ただ、大切なことは、やらされるのではなく、自主的にやらないと、効果がないというのではないが、そもそも続かない。
そして、自主的にやっていれば、最初は甘い妄想の部分があっても、現実の問題を解決するうちに、どんどん強くなっていくのである。
ところが、自主的で熱心であれば、妄想の部分も、案外うまくいってしまうのである。
それは、親が子供のファンタジーを、ある程度は叶えたり、守ったりするのと同じようなものである。
宇宙を動かす主から見れば、人間は自分の子供のようなものであるからだ。









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