前向きな目標なくして、パワー(能力や精力)を発揮することは出来ないだろう。
それも、高校生くらいまでなら、部活のスポーツでレギュラーになるとか大会で優勝するといったもの、あるいは、良い大学に合格するといった、個人的な(あるいは仲間内の)目標でも良いのだが、ある程度の年齢になると、自分のためだけの目標では、力が出てこなくなる。
例えば、二十歳もとおに過ぎた女性が、美人になるためにエステに熱心に通ったり、やはりいい歳の男が高級車を手に入れたくて仕方がないでは、ちっぽけなエネルギーしか湧いてこない。
「いや、俺は天下のことしか考えていない」と言っても、自分の面倒もロクに見れない者がそう言うのは、偉くなってチヤホヤされたいという個人的な欲でしかない。

ところが、プロ野球選手というのは、チームのためとか、球団やファンのためより、家族のためと思っている選手の方が活躍するという話を聞いたことがある。
そういえば、落合博満さんなんて、奥さんの誕生日には、相当な高確率でホームランを打ったらしい。
ナチスの強制収容所に送られ、奇跡的に生還したユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルは、生き甲斐など全く持てない絶望的な状況で生き延びられたのは、結婚したばかりだった妻のことを考えたからだし、他にも、息子に再び会うことを思って、生きるエネルギーを得ていた者もいたようだ。
家族というものは、良いものらしい。
だが、小学生の息子と一緒になって、家の回りの道路で、近所の迷惑も考えず、大声を上げながら遊んでいる親は、息子や娘が思い通りにならなくなると、途端に愛着がなくなり、子供の方も馬鹿にするものだ。
フランクルらの場合、家族が離れていたから、本当に愛せたのだろう。
野球選手の場合も、普通の人よりは奥さんや子供と離れていることが多いし、また、下で述べるように別の理由もある。

職場を見ていると、30歳もとおに過ぎると、自己承認欲求だけでやってる者が多いし、そんな者しかいなくなったら、その会社は長くはないだろう。
つまり、一言で言えば、人間には、なんらかの高貴さが必要なのだ。
若い時なら、プログラミングを覚えることだって、自分が社会で生きるための武器を持ちたいと思うなら、集中出来るし、高貴さも出てくるのだが、歳を取ってからだと、それだけでは、なかなか意欲も湧いてこない。
一方、名プログラマーになったとかではないが、45歳からプログラミングを始め、上達して会社の中で優れた成果を上げた人もいた。
そんな人というのは、パソコンやプログラミング言語を世に送り出した人達への敬意を持っていたとかの、やはり何かの高貴さを持っていたのだ。
私も、割と歳が多くなってからプログラミングを始めたが、全ての人がプログラミングが出来るようになるためにBASIC言語を開発した、ダートマス大学の数学教授ジョン・ケメニー、トーマス・クルツ両教授への敬意があったので、うまくいったのだと思う。

フランクルは、妻に対して単なる愛着を持っていたのではなく、女神のように敬っていたはずなのだ。
ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』や、ロオマン・ガリーの『自由の大地(天国の根)』のように、堕落した男達が、たまたまそこにいた16歳の少女や、空想の少女を崇めることで、みるみる向上したのも同じことである。
初音ミクさんのコンサートでも、ミクさんを天使と崇める人達はマナーも素晴らしく、それぞれの世界で高い能力を発揮しているはずなのだ。
落合博満さんだって、奥さんを崇めているのだと思う(同意していただける方は多いと思う)。
「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」、あるいは、「南無妙法蓮華経」といった念仏や唱え言葉が、それを行う者を加護するのは、それを行う者が、わずかでも高貴な心を持ち易いからではないかと思う。
なんと言っても、称名する対象は、人を超えた尊い存在、あるいは、尊い教えであるのだから。









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