自分が不幸だとか、苦しい状況にあると思っていても、難民や戦争状態にある地域に住む人のことを思うと、平和そのものである。
日本で、それほどの不幸になることは滅多にない。
まさに、「日本に生まれただけで丸儲け」である。
まるで駄目男君(ある30代後半の人生の落伍者)が「逆境に耐えてます」と言った時は、私は怒りがこみ上げ、本当に殴ってやろうかと思ったほどだ。まあ、殴る値打ちもないが。

それでも、人間は不満を持ち易いものであるから、自分が恵まれていることを知るために、アンネ・フランクの『日記』を読めば良いと思ったことがあるが、それは駄目だった。私は『アンネの日記』は30%も読んでいないと思う。
あの状況で明るさを保ったアンネは大したものだと思うし、かなり頭の良い子だとも思うが、彼女は普通の少女である。そして、彼女が普通の少女であり続けたことが、日記の価値を高めている面もあるのだと思うが、私は、その普通の少女の感覚というものについていけない。時代が違うとはいえ、少女というものは、そんなに変わらないのではと思う。

それでは、ナチス強制収容所に送られるも、奇跡の生還を果したユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読めば、今度こそ、相対的な自分の幸福を実感出来ると思ったが、予想外な意味で「アテが外れた」。
確かに、フランクルの苦痛や苦悩は大変なものなのであるが、やはり、読んだだけでは実感が出来ないことに関しては納得が出来た。
しかし、フランクルもまた、「普通の人間」であることをやめなかったのだ。
彼は、あの極限状況でも正気を保ち、良心を持ち続けた。思考という点では、彼も言う通り、薄弱になったり、感覚も鈍磨していたが、それでも、彼は異常にならず、また、強制収容所時代、そして、解放されてからも「超人」にはならなかった。
それなら、平和な状況にある我々が、どんな修行をしたところで、人間を超えることなんか出来る訳がない。
平凡かどうかは分からないが、人間は人間として生きるしかないことが分かるのである。
だが、安心して良い。

人間の精神というものは、普通の人が考えるよりはるかに高度なもので、その中に神がいると考えて差し支えないのだから。
『アラビアのロレンス』のモデルになったイギリスの軍人トマス・エドワード・ロレンスの『知恵の七柱』の中に、早朝の砂漠でロレンスが体験した、神秘的な精神状態を語っている場面があるが、それは、フランクルも感じたことがあったし、強制収容所の他の囚人にもあったようだった。
そして、それは本来、誰でも感じることが出来るし、心理学者のアブラハム・マズローや作家コリン・ウィルソンの著作にも、ごく普通の人々が、そんな「高い精神状態」に達した実例が描かれている。
それは、宗教で言う法悦と似ている、あるいは、同じである。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、それを、「神の魂が自分の魂の中に流れ込む」ことであると言い、その体験は忘れることが出来ないと述べている。
そして、それはやはり、異常なことでも、特殊なことでもなく、人間の精神の中に標準で備わった機能なのである。
子供であれば、見知らぬ地に旅行に連れて行ってもらう時や、明日から夏休みという時に、しばしば、それを感じているのである。

それは「至高体験」と言われるものかもしれないが、コリン・ウィルソンは、それは単に「自分が幸運であると思うこと」であると言う。
しかし、「自分が幸運であると思うこと」とは、フランクルの著作と合わせて考えると、「楽しみを求めない」ことに深く関係することが分かる。
既に幸運であるのに、楽しみを求める必要はないからだ。









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