ある、金持ちで、割と偉い立場の人が、こう言うのを聞いたことがある。
「こんな仕事してたら、食う以外に楽しみないだろ?」
私は、違和感と言うか、拒否感を覚えた。
彼の仕事は病院長で医者だった。
こんな考え方もあるのだろうか?

伊達政宗は晩年、こんな唄を読んでいる。

馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯(ざんく)天の許すところ 楽しまずんばこれいかん

「戦場を駆け巡り戦った若い時は遠く過ぎ、天下は平定されて長く、私も歳を取った。天の許しで今も生き長らえているのだから、楽しまなくてどうする」といった意味だと思われるが、この唄全体に、「天下を取ることを夢見て奮闘したが駄目だった。天下を取れないまま年老いてしまった。悔しい。せめて楽しもう」という無念が感じられる。
政宗は、本当はどんな気持ちで、この唄を読んだのだろう?

一方、ナチス強制収容所に送られながら奇跡的に生還したユダヤ人精神科医ヴィクトール・フランクルは「人生は楽しむためにあるのではない」と言い、インドの詩聖タゴールも、あきらかにそう考えていたことを示した。

よく、「人間は幸せにならないといけない」などと言われるが、それを聞く度に、私は嘘っぽさを感じたものだ。
まるで、初音ミクさんの『こちら幸福安心委員会です』のように、「幸せなのは義務なんです」といった感じだが、この歌は、悪の組織(政党?)をユーモラスに描いたものだ。
幸せなのが義務だと言われたら、人は、楽しみや喜びを求める。
しかし、私には、フランクルやタゴールの言うように、人生は楽しむためにあるのではないことに同意せざるを得ない。
でないと、「何のために生きるのか?」という簡単な問題が難しくなってしまうし、事実、これは難しい問題だと思われている。
人生が、楽しむため、幸福になるためにあるのだという恐ろしい誤解がある限り、これはずっと、解くことが不可能な難問なのだ。

生きることは、単に義務なんだろう。
今ある状況で、まともに生きるのが義務なんだろう。
ところで、「義務教育」とか言われるが、では、学校に行くのは義務なのだろうか?
大抵の子は、そうなのかもしれないが、「学校に行かないことが義務」という子だっているのだと思う。
だが、学校に行かないことが義務の子は、別の苦しい義務を果たすことになる。
それを果せば、結果として、普通の人より幸福になれ、幸せも感じるが、最悪になるリスクもある。
学校に行かない義務を持つ者は、学校に行く義務を持つ者のように、のんびりできず、戦いの中を生きる可能性が高いのだ。戦わないと・・・殺されかねない。生命という意味ではなく、人間の尊厳を奪われるのだ。

言い方は悪いが、奴隷には奴隷の義務がある。
例えば、ほとんどの奴隷は苦しいだろうが、自分より苦しい奴隷の面倒を見たり、助けたりし、また、奴隷でない人にも親切にすることである。
伊達政宗は、天下を取れず、悔しい想いをしたかもしれないが、白髪となった彼にも義務はあり、彼が収めていた奥州を豊かにしたりして、義務を果したのかもしれない。
人間は、天から与えられた情況の中で立派に生きることが義務なのだろう。
幸福になるには、別の方法はおそらくないだろう。









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