心理学者のアブラハム・マズローが、「偉大な人間かどうかは、至高体験の有無だけで決まる」と言ったという話がある。
至高体験とは、万物と一体となった没我(忘我)の体験で、宗教でいう「法悦」は、その極限であると思われる。
道元は「仏道とは我を忘れることだ」と言い、W.B.イェイツは「芸術の目的はエクスタシー(忘我)」と言っていたようだ。
現代の心理学で言うフロー(完全にのめり込んだ状態)にも通じるかと思う。

ところが、マズローと親交のあったイギリスの作家コリン・ウィルソンは「至高体験は誰にでもある、ありふれたもの」と言い、緊張の後に弛緩した時に起こり易いと言った。
緊張の後の弛緩の極端な例で言えば、地雷や時限爆弾を解体し、起爆の可能性がなくなってほっとした時などだが、それほどでなくても、緊張した後、安心してほっとすることは誰にでもある。
『荘子』には、名料理人の包丁(ほうてい。刃物の包丁の語源)が、牛を見事に解体し終えた時に、常にそれを感じるような記述があった。
そして、マズローもウィルソンも同意したと思われるのは、至高体験とは、単に、自分を幸運だと思うことだ。
だから、マズローは大学で、学生達を被験者にした実験で、教室の中で学生達に、自分の幸運の体験を話させると、他の学生達の至高体験を引き起こしたと言う。
私は昔、志ある大人達(10人ほどだったと思う)に、これをさせたことがある。
その時、1人の50代の女性の、自分が強盗に遭い、冷静に切り抜けることが出来た体験の話で、他の人達も至高体験に達したのを感じた。

ところで、では、幸運体験を発表し合う機会のない、ぼっちはどうやって至高体験を得れば良いかというと、これも、コリン・ウィルソンが凶悪犯罪者相手に教えている。
ペン等の先に強く集中し、いっきに集中を解くのである。
それを何度か繰り返せば、至高体験、あるいは、それに近い状態に達する。

至高体験は、本来、量子論(量子物理学、量子力学)で解くべきものではないかと思う。
量子論とは、波動と粒子の変換の科学と言えるかもしれない。
じっと集中し、粒子の状態になった後、弛緩して波動の状態になると、真の世界を垣間見る・・・それが至高体験である。

昔、歴史的テニス・プレイヤーのジミー・コナーズが「テニス選手には2種類しかない。ウィンブルドンのタイトルを持つ者と、そうでない者だ」と言ったという話がある。
4大タイトルの中でも別格のウィンブルドン(全英オープン)大会のマッチポイントという最大の緊張の後、勝利が確定し、一気に緊張が解けた時は、さぞ、大きな波動の状態になるのだろう。

ナチス強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルは、『夜と霧』の中で、「人間には2種類しかない。まともな人間とまともでない人間だ」と述べているが、まともでない人間とは、小さなことに凝り固まり、広がることがない人間なのだろう。
緊張や集中は必要である。
しかし、弛緩や解放も必要である。









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