ナチス強制収容所から生還した精神科医ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んでいて、強い共感を覚え、心を打たれた一文がある。

こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともでない人間と、ということを。
~『夜と霧』( 池田香代子訳。みすず書房)より ~

まさに、これが人間の真理である。
こういうと、「完全に善の人間も、完全に悪の人間もいない」「善とか悪というのは、見方の問題で、絶対的善、絶対的悪はない」等として、上記の論に異を唱える人も多いかもしれない。
しかし、そうではない。
人間には、「まともな人間」と「まともでない人間」がいる。それだけが真理である。
あるいは、「まっとうな人間」と「まっとうでない人間」。
または、「真人間」と「偽人間」と言っても良い。

まともでない人間だって、自分の子供や自分の孫は可愛がっているように見えることが多いだろう。
しかし、それは、単に、子供や孫を自分の味方や子分にするためだと思う。
なぜなら、自分の子供や孫の前で、非道徳的な行い、利己的な行いを平気でやれるからである。
言い換えれば、自分の子供や孫を可愛がっていても、その子らの前で、非道徳的な行いを躊躇なくやっているなら、その者はまっとうな人間ではない。

まともでない人間も、痴漢やセクハラは控える場合が多いが、それは単に、そんなことをすれば不利益を被る・・・つまり、損であると心得ているからだ。
昔は、セクハラをし放題の会社も多かったが、そんな会社でセクハラをするのは、やはり、まともな人間ではないのである。
言い換えれば、まともな人間は、セクハラが出来る状況でも、決してセクハラをしない。
セクハラ、パワハラを細かく規定する必要があるのは、まともでない人間が沢山いるからである。

では、まともな人間と、まともでない人間の区別はどうやってつけるかというと、本来、一目瞭然であるが、まともでない人間ほど、他人に勝手なレッテルを貼って差別するので、注意が必要になってしまう。
アメリカの精神科医デヴィッド・ホーキンズが『パワーかフォースか』で、人間性を測定する方法を述べており、また、小説であるが、エンリケ・バリオスの『アミ 小さな宇宙人』でも、やはり人間性を測定する装置が出てくる。
そんなふうに、人間性の測定で、まっとうな人間とそうでない人間を区別出来る可能性もないことはないだろうが、これらのように、「人間性700点」といったセンター試験の成績のようなものではなく、「まともな人間」と「まともでない人間」の2種類があることが肝心なのである。
つまり、「まとも度」とかいった割合の問題ではなく、「まともか否か」といった「0か1」「偽か真」の問題である。

では、まともな人間とまともでない人間は、生まれで決まるのか、育ちで決まるのか?
正直、分からないが、多分、育ち・・・というか、環境で決まる。
そして、まともでない人間がまともな人間に変化出来るかというと、難しいが出来ると思う。

心理学者の言うサイコパスが、正確にまともでない人間と一致するかというと、それは分からない。
そもそも、サイコパスの定義は曖昧だ。
しかし、サイコパスとまともでない人間は近い概念ではあるかもしれない。

大切なことは、まともでない人間が、まともな人間になろうという衝動を、どうやったら感じるかである。
『レ・ミゼラブル』で、ジャン・バルジャンが、ミリエル司教によって、それを感じたことが鮮烈に描かれている。
だが、自分がジャン・バルジャンのような状況にならないと、それが分からないものである。
とはいえ、神は、そんな機会を必ず与えるのである。









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