スペックが低いぼっちほど悲しいものはないが、ぼっちは大抵、スペックが低い。
ぼっちとは孤立者のことだが、なぜぼっちになるのかと言うと、幼い時に、群れる訓練をしなかったからだ。まあ、本当のところは、群れる訓練をさせてもらえなかったというのが事実だと思う。
ぼっちの大半は、群に加わることを熱望するが、訓練をしなかった者が野球や将棋を上手く出来ないのと同様、群れることも上手く出来ない。
一部の ぼっちは、群れている者を見下し、ぼっちであることを肯定しようとする。
「遅い豚は群れていろ」「馬鹿なサルは媚びていろ」って感じである。
『涼宮ハルヒ』シリーズの涼宮ハルヒ、『僕は友達が少ない』の三日月夜空、『物語』シリーズの戦場ヶ原ひたぎ、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の雪ノ下雪乃(ゆきのしたゆきの)などは、ぼっちであるが、揃って、超美少女で、学問・スポーツ共に超優秀という、夢のような設定で、苦しいところは多いながら、なんとかやりすごしている。
しかし、彼女達のスペックに匹敵するぼっちはいないし、仮に匹敵するほどのスペックがあってすら、あんなふうにぼっちを貫けない。

学校は、ぼっちではやっていけないシステムだ。
それを非難する向きもあると思うが、実は、あれで正しいのだ。ただ、運用が拙いので、ぼっちを不登校にさせたり、いじめさせたり、挙句、自死させるのだが、そんな危険があるからこそ、ぼっちが減る可能性があると言えば・・・そんな面もあるのだろう。認めたくはないが。
なぜ、学校のシステムが正しいのかというと、世の中はぼっちで通用しないからだ。これは厳然たる事実である。
だから、ラノベやアニメの世界でなければ、涼宮ハルヒや戦場ヶ原ひたぎが、周囲にデレデレに媚びるという、ファンなら見たくなことをやるのが正しいし、しなければならない。

涼宮ハルヒや雪ノ下雪乃のように、ぼっちで悠然としているのは非現実なので、普通のぼっちが群れる能力を持たずに生きようとすると、非現実に逃げ込むことになる。
それでも、人間は、本来はそれほど無慈悲ではないので、周囲はそれなりに手を差し伸べてくれるのでやっていけるのである。
そうだ、ぼっちがなんとかやっていけているのは、認めたくなくても、ぼっちでない者の慈悲のおかげなのである。
だが、今は、本来ありえないほどの無慈悲な人間が多く、慈悲のある人間が皆無か、いても、慈悲を見せることが出来ないほど周囲の人間達の心が腐っているので、自殺者が増えているし、これからはもっと増えるだろう。

さて、散々、ぼっちの悲惨さを書いたが、私としては、超能力的な、あるいは、魔法的な方法でぼっちが勝てる方法を伝授せねばならない。
アンタがそうやって生きてきたんだろ・・・という訳だ。
しかし、そんな方法はない。
ないと知ることが魔法力を引き出す。
知るという言い方では足りない。思い知るということだ。
「呪文を唱えれば大丈夫ですよね」
「念仏を唱えてます。これに賭けます」
なんて甘いやつのことなど知らぬ。
群れている人達の下僕になり、あるいは、群の女王や王様の靴を舐めるしか、生きる方法はない。
それを心から認めた時に大逆転は起こる・・・かもしれない。
かもしれないだけで、確率は100パーセントではない。そんなことの成功など、誰も保証しない。
もっと有体に言えば、わずかな望みがあるってだけだ。
君にそれが出来るかどうかは、微妙というよりは絶望的だ。
・・・と、それほど厳しく言ってやらないと駄目なんだと解ったのだ。
それほど状況は厳しいことを知れば、スペックを磨く努力も出来るだろう。
頑張って欲しい。









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