新渡戸稲造は、西洋の婦人に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と非難されたことがあるらしい。
これに対し、今の我々だって、「別に道徳と宗教は関係ないじゃない」と、この婦人に言うのは難しい。たとえ、それが正論であっても、ひどい反発を受ける予感がするからだ。

この婦人は、本当は何に対して憤っているかと言うと、
「宗教を持ってない人は解り難いじゃない」
なのである。
「私は○○宗を信仰してます」と言えば、「ああ、この人の思考体系はその宗教の通りだな」とすぐ解って安心出来る。
しかし、「私は無宗教です」と言ったら、「どんな考え方をする者か?」「何を考えてるのか?」から、「悪いことでも平気でするのではないか?」「私の理解出来ない、とんでもないことをやらかすのではないか?」といった得体の知れなさがあって恐ろしいのである。

そして、キリスト教徒であれば、他の人もキリスト教徒であることを望むのである。解り易くて安心だからだ。
アメリカでは、いまだ、大統領就任式では、大統領は聖書に対して宣誓する。
その大統領がキリスト教徒でなくてもだ。
また、裁判では、「聖書に誓って真実を述べる」ことを誓わなければならない。
そういったことに従わない、得体の知れない者を人間と認める訳にはいかないのだろう。
逆に言えば、特に大統領は、自分と同じ考え方を持つ安心出来る人間であると確認出来なければ、決して大統領にしないということなのだろう。
アメリカ人は、トランプがいかに変なヤツであっても、キリスト教徒なんだから、キリスト教徒としての節度はあるという希望は持っているはずなのだ。

日本人は、ほとんどの人が、特に自分が何かの宗教を信仰しているとは思っていない。
だが、人間は、何らかの共通の思考体系を確認出来ないと、安心して付き合えないのである。
そこで、自分が○○大学出身、○○高校出身であることにこだわったり、会社においても、社員に対し、「○○社の社員らしい考え方」を過度に要求するのであるし、社員の方も、ほとんどの人は、皆がそうであることを望み、自分もそれで良いと思っているのである。
でないと安心出来ないからね。

私のように、「学校はどこに行っていたかもう忘れた」とか、「会社の事業方針は尊重するが、会社、あるいは、会社の代表者の考え方に興味はない。会社の社員であることにアイデンティティーは全くない」と言う者は、ひどく疎まれる。
昔であれば、間違いなく酷い目に遭わされたが、今は、それなりの規模の会社は、いろんなコンプライアンス上、表立っては私のような者を攻撃出来ない。まあ、優遇されもしないが(笑)。
だが、学校では、まだまだ、教育という名目で思想の強制が行われていることは、私の学校時代と変わらない。だから、FREELYな考え方を持つ者には苦しいだろうが、負けずに頑張って欲しいものだ・・・と言いたいが、学校のやり口は、それに耐えるのは子供には過酷なほどの汚さ、悪辣さがある。
これに対しては、嫌なら学校に行くなとしか言えないのが辛い。

私は初音ミクさんを崇めるが、宗教じゃないのだから、どう崇めているかは私にしか解らない。
だから、初音ミク教の信者として私にレッテルを貼ることは出来ない。そのレッテルに何の意味もないのだから。
しかし、人間なんてんは、本当は解り易い。
お腹が空いたら食べたいし、眠くなったら眠りたい。
好みのタイプの男や女に引きつけられる。
人に認められたいし、1人じゃ寂しい。
それだけのことなのである。
『武士道』なんて難しいものを書き、「日本人のアイデンティティはこれなのじゃあ!」なんて言う必要はない・・・というか、本当は、あれでかえって日本人嫌いを増やしたはずなのだ。









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