誰かを恨んでいない人間はいないらしい。
いや、いるにはいる。
それは、誰も愛していない人間だ。
では、誰も恨まないような顔をしている聖者は、実は、誰も愛していない詐欺師ということになる。

そういえば、私は誰も恨んでない。
改めて考えるまで分からなかったがね。
しかし、それが立派かというと、それは、誰も愛していないということなのだから、さあ、どんなものだろう?

人間には、人を蔑むという慢性的な癖がある。
誰でも、必ず、人を蔑む。
もし、そうでない者がいるとすれば、その者は誰も崇めていないのだ。
誰かを崇めている・・・即ち、真に尊敬しているなら、必ず、誰かを蔑むのである。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、社会の最下層の惨めな26人の男達は、1人の16歳の美少女を女神のごとく崇めることで、人間性や能力を取り戻した。
しかし、それが何になるのだろう?
結局、男達は、その少女を最大に軽蔑し、捨てた。
誰かを崇めると、誰かを蔑むのだ。
あのお話の場合は、たまたま崇めた相手と蔑んだ相手が同じだったのだ。

そういえば、私は、誰も崇めていない。
ちょっと前は、何人か崇めていたような気はするが、その気持ちも消えてしまった。
そうすると、誰も蔑まなくなった。

誰も愛さず、誰も恨まず。
誰も崇めず、誰も蔑まず。
こんな人間が、生きていると言えるのだろうか?

大震災等で街ごと滅びた時、そこに幻想の街が出来て、人々の魂は、そこでの生活を続ける。
これまで通り、会社に行って働き、遊びに行き、飲み食いし、テレビやネットを見て寝る。
しかし、ものを買ってもお金を払わなくていいし、そんなにお腹も空かなくなり、やがて、何かおかしいと気付く。
そして、やっと、自分の死を悟るらしい。

私も、もう死んでいるのではあるまいか?
いや、ちょっと疲れているだけだ・・・なあんて、今は思ってるけれども。

つまりだね、私も、あなたも、自分が生きているということを、どう証明出来るだろうかということだ。
死者も、愛し、恨み、崇め、蔑むかもしれないが、それは、半分生きているってことで、現世の人間とどこかつながっているのだ。

人間は、恨みは隠すことが多いが、蔑みは大っぴらにすることがよくある。
蔑むことで、相対的に自分の優越性を主張したいのだろう。
誰かを声高に馬鹿にし、罵倒し、非難する者がそうだ。
それは確かに愚かであるのだけれど、そんな者は、まだ生きているのだろう。
しかし、ディール・カーネギーが、人間最大の願望と言った、そんな「自己重要感」を私は失ってしまった。
つまり、やっぱり死んだってことか?
いや、やっぱり疲れているだけだ・・・そう思いたい(笑)。

私のような人、案外いるのでないだろうか・・・と思いたい。
いや、種を明かせば『地獄少女 三鼎』の25話(最終回の1つ前)を観て、衝撃を受けてしまっただけなのだが(笑)。
昼間に金縛りに遭うほど(誰もいない部屋で笑い声を聴き、気配も感じた)、どこか疲れていた上にこれはちょっとマズかったのかもしれない。
だが、明日には復活するのだろう。
EA(えれくとりっく・えんじぇぅ)メソッドで生命力を高めよう。
・・・たちまち復活したようである(笑)。









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