ビートルズの『エリナー・リグビー』と『ひとりぼっちのあいつ(Nowhereman)』は、私にとっては不安をかき立てる歌だった。
老婆になっても王子様を待ち続けるエリナー・リグビー。
誰も説教を聴きに来ないマッケンジー神父。
そして、自分だけの世界に住み、誰の役にも立たない計画を考えるだけの「ひとりぼっちのあいつ」。
今でなら、彼らのことを、ひきこもりとか、社会不適合者と言うのだろう。
全く私のことだったが、『ひとりぼっちのあいつ』では、そのひとりぼっちのあいつのことを、歌い手が聴き手に語るように、「君や僕のようなやつなのさ」と歌うのが、なんだか、少し救われた気になっていた。「皆、そうなのかな?」って思えてね。

この3人とも、人付き合いが苦手なことは解る。
社会でうまくやれない理由は、それしかない。
「人付き合いが苦手で」なんて言う人がいるが、それは「私は社会不適合者だ」と言っているのと同じであり、どこにも居場所がないと宣言しているようなものだ。
子供がいるなら、絶対に、人付き合いが出来ない人間にしてはならない。
よほど特別な人間であれば、人付き合いが出来なくてもやっていく道はあるかもしれないが、あなたや、あなたの子供がそれほど特別である可能性は限りなくゼロだ。

思想家の吉本隆明が、「ひきこもりは、他人と接することなしに出来る仕事を見つけるしかない」といったことを著書に書いていたが、そんな仕事はない。
インターネットのいかなる仕事も、人付き合いのスキルのない者では、儲けることは出来ない。
リアル、バーチャルに限らず、駄目なやつに共通するのは、人付き合いが出来ないことだ。

『ひとりぼっちのあいつ』の結論は、「誰かが助けてくれるのを待て」だった。
しかし、孤独者を、少ない、あるいは、ゼロの見返りで助けてくれる者などいない。
ただ、この歌では、きっと誰かが助けてくれるから、あせるな、落ち着け、心配するなと言う。
一言で言えば、「大丈夫だと思え」ということだ。
そうだ。
大丈夫だと思うことが出来れば、本当に誰かが助けてくれる。
それが出来るようになる、極めて稀な教えを言ったのは、因幡の源左という妙好人(救われた念仏者)の父だ。
源左が19歳の時に亡くなった父は、源左に「これからは親様を頼れ」と言い残した。
親様とは、阿弥陀如来のことで、浄土仏教的には、それは、念仏を唱えろという意味になる。
浄土仏教の教えは、念仏を唱えれば、死後、極楽浄土に行けるというものだが、源左の父は、念仏は現世でも力を持つことを知っていたのだ。
今の時代に相応しい言い方をするなら、自分で世界を無理矢理動かそうとせず、絶対的な力にまかせろということだ。
それは、見かけ上は、「平気でなりゆきにまかせる」と言うことになる。
意外なことに、エリナー・リグビーも、マッケンジー神父も、ひとりぼっちのあいつも、自分で世界を動かそうとしていたのだ。
だが、無力感にとり憑かれ、エネルギーを失ってしまったのだ。
悪いことなんか起こるはずがないと信じ、なりゆきにまかせることが出来れば、うまくいく・・・古代から、賢者達はそう教えてきたのである。









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