愛とは何かは、私には一生解りそうにないが、愛と言えば、萩尾望都さんの超傑作漫画『半神』をいつも思い出す。
シャム双生児の姉妹の話だが、栄養のほとんどは妹の方に行く構造になってしまっていて、妹は天使のように可愛い美少女だったが、姉は老婆のようで、髪もほとんど生えない。
しかし、その天使のような妹は知能が低く、姉が全ての面倒を見なくてはならない。
ところが、実は、妹に回ってしまう栄養を吸収しているのは姉の方だったが、成長と共に、2人分の栄養の吸収は不可能になり、手術して切り離さないと2人とも死んでしまうが、切り離せば、自分で栄養を吸収出来ない妹は死んでしまう。
姉は手術を選び、幸い、それは成功して、自分だけ生き延びただけでなく、栄養を自分のものに出来るし、双子なのだから、自分も天使のような美少女になり、青春を満喫する。
そして姉は、自分が見捨てた、老婆のようになって死んだ妹のことを、こう言う。
「愛よりも深く愛していた。憎しみもかなわぬほど憎んでいた」

もっとも、私に言わせれば、姉のこの想いは、「後ろめたさ」だ。
妹に対する負い目は、どうしようと拭えない。
そして、これほど劇的でなくても、誰でも、そんな相手はいるに違いない。
では、そんな後ろめたさのある我々はどうすれば良いか?
せめて、立派な人間であろうとすることだ。
どうも、人間の愛というものは、実は、そこにしかないと私には思えてならない。
それ以外の、愛らしきものは全て、偽物の愛である。

8歳の娘を虐待死させた父親がいるが、あの父親がもし、娘に対する後ろめたさを感じ、立派な人間でいようとしたなら、それは、これまでは無かったはずの、娘への愛を持ったことになる。
ただ、そうなれば、この父親は生きていけないだろう。
まあ、それは、ほとんどあり得ないだろうが、万一、そんなことになったなら、それは「愛は世界を救う」などと口先で言う者より、よほど愛を持っているのだと思う。

吉行淳之助が、紳士とは、過去の恥ずかしい行いに対し、首がきゅっとすくむ者である・・・みたいなことを書いていたが、私はそれを読んだ中学生の時に、妙に納得したものだった。
恥ずかしい行いをしたことのない者は地球上の人間の中にいない。
しかし、それに対し、首がすくむ・・・つまり、本当に恥ずかしいと思う者が、本当の紳士であり、淑女だ。
この首がすくむ、本当に恥ずかしいという想いは、やはり、後ろめたさから来るはずだ。
では、「吾、ことにおいて後悔せず」と言った宮本武蔵は紳士ではない。
まあ、彼の場合、紳士なんてやってたら生きられなかったということもあるのだろうが、やっぱり彼は紳士じゃあないのだ。
紳士は、無理に剣豪になどならないものだ。
武蔵は、どんな汚い手を使ってでも勝つことを選ぶ者で、紳士でも騎士でもなかったし、間違いなく、武士でもなかった。

だが、そんな武蔵も、ひょっとしたら、過去に卑怯な手で葬った敵達への後ろめたさからか、生き延びる秘訣を『五輪書』にまとめ、後の人の手引きとした。
まあ、「不意をつけ」「むかつかせろ」などと書かれたそれを、学ぶべきかどうかは解らぬがね。
あの通りにして勝っても、まともな人間なら後ろめたさを感じるだろうし、それが一生の負い目になる。
生きていれば、嫌でも負い目は背負うのだから、わざわざそれを作ることはあるまい。
不意をつく必要も、むかつかせる必要も、もう無いのだ。
武蔵よ、やすらかに眠れ。









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