昔の何かのテレビドラマで、真面目な青年が過去の過ちを指摘された時、「叩けば埃(ほこり)の出ない人間なんていません」と言ったのが、物凄く印象的でよく覚えている。
だが、私にはむしろ、「脛(すね)に疵(きず)持つ」の方が身に染みる。
「脛に疵持つ」とは、なんとなくでもご存知と思うが「昔犯した悪事などを隠している。自分の身にやましいところがある」という意味である。
脛に疵を持っていない人間などいないだろう。
たとえ子供ですらそうであり、ましてや大人であればいくつも・・・私の脛は疵だらけだ(笑)。

だが、大抵の人間は、自分の脛の疵に気付かないか、あるいは、無視している。
そりゃ、自分の脛の疵を、いちいち気にしてたら生きていけないかもしれない。
しかし、全く意識しないのもどうかと思う。
それに、案外にというか、実際そうだと思うのだが、脛の疵が運命に大きな影響を与えているのかもしれない。
脛の疵は、普通、隠すものだが、運命として、隠せないように現れてしまってるのではないか?
だが、それは天の恵みなのだ。自分も隠し、運命にも現れなければ、いずれ恐るべき悲惨となるだろうから。

昨日、「武士道」の話でも書いたが、戦(いくさ)もない太平の世で、武士は特権階級として、働かずに良い生活をしていた。
それを後ろめたい・・・つまり、脛の疵と感じた武士が「せめて立派な人間でいよう」と思って、武士道という精神を創った。
なるほど、それは逃避であると言えるし、自分は安楽な立場に逃避し、農民に負担や苦難を強いることが、さらに脛の疵になり、ますます高い精神を創らざるを得なくなった。
もちろん、そんな脛の疵など全くお構いなしに、のうのうと、あるいは、傲慢に良いご身分に甘んじていた武士もいたに違いないが、案外にそんな武士は少なかったのではないだろうか?
それはともかく、武士達は、自分の脛の疵が嫌で、「せめて立派な人間でいよう」と思ったのだ。

そして、江戸時代の武士達よりいいご身分である我々の脛の疵は小さくも少なくもない。
いいご身分であることもだが、それよりも、過去に出会った人達にかけた迷惑、損失、冷淡、様々な危害、無慈悲・・・そんな脛の傷は数え切れない。それに気付かない馬鹿もいるかもしれないが、「叩けば埃の出ない者はいない」「脛に疵を持たない者はいない」のである。
少し考えれば、自分の脛の疵なんて、恐ろしくて見ることなど出来ない。
だから、「せめて立派な人間でいよう」と思うのである。
もちろん、「せめて」であり、罪を償うことが出来れば一番であるが、その能力がない場合も多いし、現実的に、やろうとしないことがほとんどだろう。
そんな自分の弱さを思い知りながら「せめて立派な人間でいよう」とすら思わない人間が・・・まあ、いずれ、あまり楽しくない想いをすることになるだろう。

少しも道徳的、倫理的な意味ではなく、脛に沢山の醜い疵を持つ者として、せめて立派な人間でいようと思う。
あの宮本武蔵が、晩年、見事な書や絵を描いたのは、過去の剣での決闘が、実は脛の疵と感じて苦しかったからだと言われたら、私は納得する。
彼は、どれほど多くの人を傷つけ、苦しめただろう。
それでも、彼はなかなか懲りなかった。
だが武蔵は、養子にした息子には剣を教えず、学問を積ませたが、自らも立派な態度で過ごしたのではないだろうか。
武蔵は、剣術使いの運命を避けることは出来なかったが、案外に、本人は、そうでなければ良かったと思ったのかもしれない。

脛に疵持つ我々が、「せめて立派な人間でいよう」と思えば、地球も、少しは良い星になるのではないだろうか?
また、そのような人間であれば、そうは不幸にならないものであると思う。









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