お金は誰でも欲しいが、いくら欲しいだろうか?
例えば、それが5億円だとして、そのお金をどうするかと聞かれたら、「貯金」と言う場合が多いのではなかと思う。
そんな人が、下手に本当に5億得れば、まあ、ロクなことにならない。

原始時代、人は、資産を持つという考えかがなかったが、食べ物がなかなか得られずにひもじい思いを経験すると、食べ物を備蓄することを思いつく。
集団で共有の備蓄なら良いが、1人(あるいは家族)でドングリ百トンとか持つのは無駄であり、他の人に回すべきだし、1人であまり多く持つと、失うことを恐れて気が休まらない。病気というのは気から来るとしたら、まさに、「気が休まらない」ことで、人類は、そうやって初めて「病気」を発明したのかもしれない。
現代でも、普通の人が5億円持つとは、こういうことかもしれない。

会社を定年になっても、資産ゼロの人が増えているらしい。
もちろん、一概には言えないが、それは、活動のためのお金を必要としていない人ではないかと思う。
社会のために、何かをする能力があり、それをしたいのに資産ゼロでそれが出来ないということは、あまりない。
5億円が必要な、社会のためになることをする人なら、5億あっても元気だろう。

漫画の『新世紀エヴァンゲリオン』で、碇ゲンドウと冬月コウゾウがまだ結託する前に、冬月が若かった碇に、
「失礼だが君の資産を調べさせてもらった。個人で持つには多過ぎないかね?」
と言う。
それは、地球防衛組織とも言うべきネルフを作るためのものであるから、別に多過ぎない。

昨日、松下幸之助のダム経営・・・つまり、企業は内部留保という自己資本、つまり、蓄えを持つべきだと言ったらしいが、必要もないのに過度に持っても仕方がない。
もし、内部留保が増えれば、新しいビジネスを展開すべきだろう。たとえ同じ業種を続けるとしても、企業はいつまでも新しい試みに取り組まなければ衰退し、滅ぶ。
こういったことは、個人も同じなのだ。

金持ちになりたい人は多いし、とりあえず安心出来る資産は持つべきだが、多く持つなら、それを持つに相応しい理由がいる。
それなしに、多大な資産を持つと、トラブルが起こる。
殺されたり、病気で死んだら、実は凄い資産を溜め込んでいたという話は多い。
健康で幸福な金持ちになりたければ、それに相応しいことが出来なければならないだろう。

松下幸之助は、内部留保を持つには、それを持つことを願えと言ったらしいが、この「願う」の意味は深い。
願いは目的とは違う。
目的は、それがゴールだが、願いは、その先がある。
目的は無理矢理叶えようとするが、願いは、高い力にまかせようという想いが、いくらかはある。
ある意味、運まかせだ。
「どうしても叶えたい」と血走った目で言うのは目的であり、願いではない。
目的は叶えても満足せず(心が落ち着かず)、すぐに次の目的が必要になる。
目的で得た5億円は敵になるが、願いで得た5億円は味方になる。
目的で5億円を得るのは苦しいが、まっとうな願いであれば自然に集まる。
まして、それなりの使命のためであれば、ある程度の資産、蓄え、内部留保を得るのは容易い。
まず願えとは、そんなことではないかと思う。
今回も思考継続中で、まとめない。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ