小学4年生女児の虐待死について思うと、私は、スウェーデン映画『処女の泉』を思い出さざるを得ない。
この映画では、熱心なキリスト教信者で、世間的にも立派な農場経営者の男が溺愛する15歳くらいの娘が浮浪者の3人兄弟にレイプされた上、撲殺される。
肉体的にも逞しい父親は、犯人を見つけると、3人を正面から、まさに叩き殺した(兄弟の1人はまだ子供だった)。
そして、娘の遺体を見つけた父親が神に対して言ったことが、私が、あの小4女児に対して思ったことと同じだ。
「神よ、あなたは見ていたはずだ」
この父親の場合は、自分が正しい信仰者であることも含めてだろうが、なぜ娘を助けず、悲惨な目に遭わせたのかと、初めて神を非難したくなり、宗教心が揺らいだのだろう。
だが、父親が信仰を捨てず、娘の遺体がある場所に、自分の手で教会を建てることを誓うと、娘が横たわったところから泉が湧き出る。
この映画の正確な意味は分からないが、1つ言えることは、この父親の宗教心は、世俗的には正しいが、実際は正しくなかったことは分かる。
娘を溺愛するあまり、常に娘のことを一番に考え、他の者・・・妻でさえ、ぞんざいに扱うことも多かった。
そして、自分を立派な宗教者であると考え、知力体力に優れ、社会的にも成功していることから、世界を自分が動かしていると思っていたのだろう。
だが、イエスは、「神よ、私は戒律を守っています。献金もしています」と言う者ではなく、「神よ罪人である我を哀れみたまえ」と祈る者を高く評価した。

神・・・と言うかどかはともかく、この世界では、宇宙の運行に身をまかせれば幸福でいられる。
ちなみに、冷静に考えると、私自身は神を信じてはいないかもしれない。
ただし、世界を動かす何らかの意思とか仕組みというものがあるのは間違いなく、それを神と呼ぶなら、私はそれを信じていると言える。
そして、あの父親の娘は、やはり父親同様、自分の考え方を優先して生きていた。
とはいえ、娘はまだ若いので、本来は大目に見られるはずであるが、父親のエゴの分が合わさってしまい、悲惨が身に降り注いだ。
もちろん、それは父親も同じである。
そして、あの小4の女児の場合はどうかというと、社会全体・・・つまるところ、我々のエゴを引き受けてしまったのだ。
特に、児童相談所に必要な金が回らないほど、税金を不当に自分の給与にしてしまった沢山の者達(働きもせずに大企業の重役並の給与を受け取っている者は少なくない)はじめ、税金の無駄使いを平気でやっている者達の罪は大きいが、我々も無罪ではないのだ。

因幡の源左(いなばのげんざ)という、江戸末期の農民は、19歳で父親が亡くなる時、父親に、「これからは親様を頼れ」と遺言される。
親様とは、仏様・・・具体的に、阿弥陀如来であると思う。
源左は、初めはどうしていいか分からなかったが、草運びをしている時、牛を可愛がっている源左は、牛に草を担がせると共に、自分も一束担いだ。
しかし、どうにも身体が持たなくなり、「すまない」と言って、自分が担いでいた草も牛に担がせると、牛は全く平気である。
それを見て、源左は、自分の荷は阿弥陀如来に任せれば良いという、キリスト教の教えと同じものに行き当たる。
インドの聖者ラマナ・マハルシも「列車に乗ってまで、自分の荷物を頭に乗せて苦労する必要がどこにあろうか。同じように、全てを神に任せて安心しなさい」と教えた。
我々も、それを学ぶべきである。
ただし、スーフィーの格言にある、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
を忘れてはならない。
草は牛が運ぶが、草を刈るくらいのことはしなければならない。









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