非人格者とは、傲慢で利己的な人間・・・つまり、自分さえ良ければ良いという人間だろう。
そんな人間がいるのは、まあ良いのだけれど(笑)、それを行動で堂々と、積極的にやってしまう人間には疑問を持たざるをえない。
私は、ひょっとしたら、全ての人間は非人格者なのではと思ってる。
高潔に見える人間の立派な行為というものが、自然な、その人間の本性のままのものであるとは、私には信じられないのである。
まあ、言いたくはないが、私が完全な非人格者だからである。
人間は、自分とは全く異なる人間については想像出来ないものなのだ。
『スーパーマン2』で、スーパーマンと同じ力を持つ、ゾット将軍らクリプトンの3人の悪人達が、スーパーマンが地球の人間を大切に扱うのを見て、こんなことを言い合っていた。
「スーパーマンはなぜか地球人を大事にしているようだ」
「ペットを可愛がるようなものか?」
「多分そうだ」
つまり、ゾット達には、スーパーマンの心など想像も出来ないのである。
同じく、もし、本当に人格者というものがいたとしても、私には、そんな人間は理解出来ないだろう。

だが、私はとても礼儀正しい。
それは、人間性が高いからではなく、その方が得・・・と言っても良いが、私の狙いとしては、圧倒的に楽だからである。
だから、自己中心的なことをためらいもなく、むしろ、それが自分のアイデンティティーであると言わんばかりにやる者を見ると、なんでわざわざ、自分が苦しくなることをするのかなあと、ずっと疑問に思っていた。
だが、結論は完全に分かる。そんな人間は、単に、おそろしく頭が悪いのだ。
私も、あまり賢い方ではないので、高潔さの発揮レベルはとても低いが(笑)、それでも、あまり苦しまずに済む程度には「見かけ人格者」で、稀には「素晴らしい人」と(誤解して)言ってもらえることもある。もちろん、そんな時には、それを否定する程度の謙虚さ・・・じゃなく、賢さはある。

利己的な行為や言葉が自分を利するのは、大抵はその一瞬だけで、むしろ、それで下手に長く利益を得るほど、後で何倍も何十倍も奪われる。
『めぞん一刻』という高橋留美子さんの漫画で、大学生の五代君が教員免許取得のために高校に教員実習に行った時、1年生の大変な美少女の女子高生に気に入られ、ひと気のない体育館でセミヌードで迫られるという漫画的展開(笑)になった時、五代君は何と自制する(信じられないぞ)。
実は、その様子は、五代君が憧れる響子さんと、響子さんの恩師の先生に見られていたと後で分かり、五代君は「自制して良かった」と強く思う。
では、そんな素晴らしい女子高生に手を出さなかった五代君は立派な人なのかというと、まさかそんなことはなく、ただ、「それほど馬鹿でなかった」だけである。
手を出していたら、人生が終わりかねないくらい拙いことになる可能性もあるからだ。
昨今の現役教師には、五代君のようなアクシデントではなく、積極的に自分の女子生徒・・・それも小学生にまでちょっかいを出す者なんて、もはやありふれていると思えるほどであるが、別に、教師の人格が下がっているのではなく、教師の頭のレベルが極端に下がっているだけである。
そんなこと、言うまでもなく当たり前と解ると思う。
バレたら終りってことすら理解出来ない薄弱な頭脳しか持っておらず、バレる可能性は宝くじの100円当選どころではないことも分からない超馬鹿なのである。
たとえバレなかったところで、ロクなことにはならないのは、馬鹿でない限り子供でも分かりそうなものであるが、それが分からないほどの「馬鹿な子供以下の」馬鹿が教師をやっているのである。
試験問題を解くしか出来ずに教師になったのだから、頭が悪くて当たり前だろう。
アメリカでは、アンスクールと言って、学校なしの教育・・・というか、大人が子供を教育しないことが注目され、間違いなく、いずれはそれが主流になるだろう。
みんなでやれば恐くない。
もう学校とは、さっさとおさらばすることである。
岡本太郎が、授業中、手で耳を固く塞ぎ、「私の神聖な頭脳に、馬鹿な教師の言葉が入るのを許してはならない」と思ったのは、実は、自然なことだったのである。ましてや、今は当時よりも教師は馬鹿になっているのである。









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