努力が嫌いでも、望みを叶え、幸福な者がいる。
おそらく、根本的には、努力は不要なのだろう。
しかし一方、努力嫌いな者の中には、怠惰で傲慢で放埓(勝手気まま)で、ものを考えず、見ていて「胸糞が悪い」としか言いようのない者もいて、このような者達は、ごく一時期(概ねごく若い間だ)を除き、幸福であることはない。

幸福については、本当は努力好きな者についても考えねばならないが、とりあえず私が努力嫌いなので、そのような者(努力嫌いの者)について考える。
上に述べた通り、努力嫌いにも、良い努力嫌いと悪い努力嫌いがいる。
あえて言うが、それは、道徳的な良い悪いではなく、幸福かどうかである。
つまり、幸福な努力嫌いと、不幸な努力嫌いだ。
そして、その違いを単純に理解し、我々は幸福な努力嫌いであれば良いのである。
話は簡単だ。

努力嫌いな者が幸福であるためには、何らかの上からの力が必要である。
王子様王女様であれば、王国の権力や王の権威である。
我々は、潜在意識の無限の力が与えられているので、ある意味、王子様王女様である。
だから、良い王子様王女様と、悪い王子様王女様について考えれば分かり易いのである。
お世辞でなく、「さすが王子様」「さすが王女様」と言える王子様王女様もいれば、口には出せなくても「こりゃ駄目だ」としか言いようのない王子様王女様もいる。
その違いはただ1つ、「帝王学」を学んでるかどうかだ。
よって、我々も、自分の宇宙に相応しい帝王学を学べば良いのである。

『バガヴァッド・ギーター』は、神クリシュナが王子アルジュナに説いているように、世俗の帝王学を超えた帝王学なのである。
また、『老子』は、君子のための教えであり、やはり帝王学なのであり、これも、高次元の帝王学である。
そして、マキアヴェリ(マキャヴェッリ)の『君主論』は、上2つにはかなり劣るが、それだけに、我々には現実的な教えである。

ところで、『法華経』は高度な帝王学なのである。
これを、宗教や道徳と捉えると、おかしなことになる・・・というか、そう捉えているので、おかしくなっているのである。
そもそも、これは、無限の資産を持つブッダが、その後継者であるあなたに向けての教えであるのだから、どう考えても帝王学なのである。
そのように思って、4つのうちのいずれかを学ぶと、やはり、あなたはこの世という王国の、努力無用の後継者である。









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