1人で自由に過ごせる時間である「暇」について、罪悪感を持っている者も多いだろう。
そう感じるのは、国民に家畜のような労働者であることを期待(強制?)する国家の思惑通りに違いない。
そんな罪悪感を持った者は、定年後に退屈でおかしくなってしまうのだ。

『武士道』は、宗教を持たない日本には、宗教にも優る崇高な精神があることを欧米に紹介するために新渡戸稲造が英語で書いたものだ。
新渡戸が慎重に書いたこの書は、これを真面目に読んだ欧米人に誤解を与えることなく、日本の優れた精神文化に、感動を超えて畏敬の念を持たせることも多かった。
武士の中にも堕落した者もいたかもしれないし、日本人ですら、時代劇の影響で武士の奇妙なイメージを持っている者も多いが、確かに武士道には西洋の騎士道とも違う、極限的な崇高さや理知があったのだ。

ところが、この「武士道」こそが「暇道」なのである。
ご存知の通り、武士は特権階級で、武士は労働することなく食べることが出来た。
その代わりに、他国からの侵略があった時、武士には領民を守って戦う義務があった。
しかし、徳川の世には日本の統治が完全になり、戦のない太平の世になった。
すると、武士は「戦う」という本来の務めがなくなり、暇になってしまったのである。
それに対して、武士が実際にどう思ったのかは分からない。
新渡戸もそうだったかもしれないが、武士達が後ろめたく思ったと言う者もいるが、さあ、それはどうだろう。
後ろめたく思って、せめて立派な人間でいようと思ったことが武士道になったという考え方もあるが、あまり賛成出来ない。
ただ、暇だったのである。
そして、元々が勤労の義務がない武士は、余裕を持って武士道の完成を目指したのではないか?
いずれにせよ、たっぷり考え、実践する暇があったから、それが出来たのである。
その結果、世界を驚愕させる恐るべき精神世界を作り出した。
それは、サラリーマン根性、庶民感覚の染み付いた日本人に理解出来るようなシロモノではない。
しかし、暇で余裕のある者・・・富裕層であったり、世の中を笑い飛ばせるような自分で頭を使う者であれば解るのである。

イギリスやフランス等の誇る騎士道にも、そんなところは確実にある。
暇な貴族たちが、神に近付く崇高な精神文化を構築したのが騎士道なのである。

武士道、騎士道の明確な欠点は見つけられない。
そりゃ、時代の違いによる違和感を感じることはあるかもしれない。
それは、武士道と騎士道の違いにも表れている。
しかし、完全な暇を与えられた人間がとことん追求する思考活動、あるいは、沈思黙考とでも言う深い精神による瞑想的思考は大変なものである。
素晴らしい武士道、騎士道は、暇だから生まれた。
これを再認識する必要があり、我々も、出来る限り暇になり、その精神に学び、新しい精神世界を作るべきかもしれない。









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