「一切をなりゆきにまかせ、作為を捨てれば、充実した一生を送ることが出来る」と言った荘子だが、では、荘子の著作『荘子』に登場する、一切をなりゆきにまかせて作為をしなかった人達は、どうなっただろうか?
そのうちの1人は、身体がひんまがるような重病になり、苦しみ抜いて死んだ。
だが、彼は、安らかに大往生したとある。
1人は、貧乏のどん底で食べるものもなく飢える。それでも、納得はしていたが・・・
駄目じゃん(笑)。
ただし、荘子が生きた、今から2400年程前の中国は、庶民は権力者に蹂躙され、何の希望もない時代だったことを忘れてはならない。
法然や親鸞の時代も似たようなもので、彼らは、庶民の最後の希望である、「念仏を唱えれば、死んだら極楽浄土に行ける」ことだけを説いたのと同じだ。
しかし、親鸞は、念仏を唱えれば、現世でも幸福になれることを説くようになった(現世利益和讃)。
親鸞は、念仏を唱える以外に、良いことをしようと思ってはならず、また、悪いことをしてしまっても後悔する必要はないと教えた。
まさに、なりゆきにまかせるということだが、そこには、阿弥陀如来への絶対的信頼がある。

実は、イエスも、荘子や親鸞と同じことを説いている。
「神の許しがなければ、どんなことも起こらない。そして、神はあなたを愛しているのだし、あなたが欲しいものなんか、言われなくてもちゃんと解っている。安心しなさい」

言い切ってしまうと、この世は、超高度なコンピューターが作り、動かす仮想世界、シミュレーテッド・リアリティーだ。
だから、基本的運命は完全に決まってる。
しかし、私のようなプログラマーの考えでは、これほど高度なプログラムを作るなら、精妙な柔軟性を持たせないはずがない。
原始的な今日のプログラムさえ、起こる事象が影響を与え合い複雑微妙に連鎖する世界を構築出来るようになってきてるのだから。
世界に身をまかせ、逆らわなければ、適切に対応出来るよう、我々は作られている。
そして、世界に直接働きかけるのではなく、自分自身に作用を与えることによって、世界は動くように出来ている。
毎日、腕振り運動を千回やれば、それに応じて世界の方から動くようにね。
ここらへんも、プログラミングから推測出来るのである。

だが、ある人が、ラマナ・マハルシに「私は世界に身をまかせているが、良いことがない」と言うと、マハルシは、「あなたにはまだ作為がある。本当に身をまかせていない」と答えた。
なりゆきにまかせるとは、決して、怠惰になることでも、厭世(えんせい)的になることでもない。
思いっきり音楽活動をするのが運命ならそれをするし、『バガヴァッド・ギーター』のアルジュナのように、戦争をする運命なら、勇敢に戦う。
あるいは、反戦運動をするのが運命なら、やはりそうするしかないのだ。
ジョージ・ワシントンは、運命に身をゆだねるまでは散々な人生だったが、運命を受け入れ、逆らうことを止めた時に、偉大な人生への道を歩み始めた。
『バガヴァッド・ギーター』は、このシミュレーテッド・リアリティである世界を生きるためのマニュアルなのである。
『荘子』や『歎異抄』は良い参考書のようなものである。









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