あらゆるアニメソングの中で、藤田淑子さんが歌う『どろろ』の主題歌『どろろの歌』ほど印象的なものはない。
作曲は、世界的音楽家の冨田勲さんだ。
まるで、どろろの声を担当しているかのように思えるほど、どろろ(10歳くらいの悪童)の声で「ほげほげたらたら」と歌い出すが、途中で、見事に女らしい、そして、澄んだ美しい声で歌う。
だが、その後でまた、どろろのような声で、
「とぼけちゃいけねえ知ってるぜ お前らみんなホゲタラだ」
と歌うところで、ゾっとしてしまうのだ。
「とぼけちゃいけねえ知ってるぜ お前らみんなホゲタラだ」
この言葉を、身に染みて感じる者は不幸だ。

昔、丹波哲郎さんが、人生相談みたいな本で、20歳の女性のこんな相談に答えていた。
「付き合っている彼が、私のことを処女だと思っているが、私は10人ほど経験している。このことを彼に言うべきか?」
丹波さんの答は、
「いまどき20歳で10人なら少ない。真面目な良いお嬢さんだ。彼に言う必要など全くない」
だったが、この答を見て、「丹波さんらしいが、そんな馬鹿な」と思う人と、苦笑しながら「まあ、そうだねえ」と思う人がいるが、後者の人だって「真面目な良い人」かもしれないのである。
前者の「そんな馬鹿な」と思った人は、どろろのあの「とぼけちゃいけねえ知ってるぜ お前らみんなホゲタラだ」ということを感じていない人なのだ。

親が見栄っ張りで、特に自分の子供に、自分が実態とかけ離れた立派な人だと思わせようとしていることがあり、そんな子供は不幸だ。
親がホゲタラだということを知らずに過ごすが、いつかはバレる。
まあ、薄々は気付いているのだが、はっきり知った時はやはりショックだし、中には、親がホゲタラだと本当に知らない子供もいて、そんな子供が親の本当の姿を知った時は・・・無事では済まないかもしれない。

岡田斗司夫さんの話だったと思うが、Webでちらと見た面白いものがあった。
『天空の城ラピュタ』で、パズーとシータが、抱き合って転がるシーンで、「なぜあそこでチューをしないのか?」と疑問を感じるはずだが、そんなのやっているに決まってる。しかし、宮崎駿監督は、そんなシーンを露骨に描くのが嫌な人だ・・・といった感じの話だった。
いやいや、物語の初めで、パズーは気を失っているシータを、誰もいない自分の家の自分のベッドで寝かせて、手を出さない清純な男の子なのだ、そんなことするはずない・・・と言うのは、ちょっと無垢過ぎるかもしれない。
あの朝のパズーの様子が、不自然に爽やかだったと気付くかもしれない。
ドーデの『風車小屋だより』で、やむを得ない事情で、若い女性と一晩を過ごすことになった青年が「悩ましいものを感じた」と告白した以上に、パズーの心は乱れに乱れていたはずで、少なくとも、『新世紀エヴァンゲリオン』で、気を失っているアスカに対し、シンジ君がしたようなことはやってるはずと思うのが・・・まあ、普通だが、そんなことも信じられない無垢な大人もいる。きっと、見栄っ張りの親に育てられた人だ。
まあ、私の解釈では、パスーは既に、沢山の女の子に手を出していて慣れているし、その中には、シータ以上の美少女(あるいは美女)もいたはずだ。よって、パズーは、そんなにがっついておらず、よってシータは一応無事だった・・・であるが、これが一番平凡な意見かもしれない。

AKB48が恋愛禁止だという話を、端から笑って信じない人は多いだろう。
昔、アイドルだった男性が、やはり、当時人気アイドルの少女だった子と、やることはやってたと暴露したような話もあったかと思うが、まあ、本当なのだろうが、仕事がなくて注目を集める必要があって言ったのだろう。
言っても良いが、言わない方が良いかもしれない。
AKB48だって、10年後、20年後には、そんな話があるかも・・・と言うか、よく知らないが、既にあるのかもしれない。
アイドルを偶像視するアイドルオタクは、やはり、見栄っ張りの親に育てられ、人間の本質を甚だ誤解しているのかもしれない。

とはいえ、今の人間のホゲタラ振りは度が過ぎているかもしれない。
そりゃ、人間、大したものではないのだが、そこまで落ちちゃいけない。
「我、仏陀なり」
そんな呪文を唱えて欲しい。
感情を込めず、だけど、丁寧に、心の中で、出来るだけ数多く。
そうすれば、凡人にはない力を得ることだろう。









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