十分に、「絶対大丈夫だ」、あるいは、「全て順調だ」という呪文を唱えていると、頭の中の悪魔が反撃を開始し、マイナスの言葉を出し易い状況を作って不安を刺激してくるかもしれない。
そこがこらえどころで、ますます、しかし、冷静に(感情を込めず)、淡々と呪文を唱えなければならない。
すると、驚くほど、心が安らいだり、ものごとが「恐いほど」好転し、円滑になり、順風満帆になることが多い。
だが、そこで油断をしてはならない。
実際、この時点で呪文をおろそかにし、そのまま駄目になる馬鹿(本当に愚かだ)は少なくないのだ。
うまくいっているのは自分の力ではないのだと謙虚になり、神、あるいは、潜在意識の偉大な力を有り難く思いながらも、ますます熱心に呪文を唱えれば、いよいよ、本物の幸運の波に乗り、約束の地へ誘われる。
だが、神様になるまで油断をしないことだ。
スーフィー(イスラム教神秘主義)には、「彼は神様を探しに行って神様になって戻ってきた」という言葉がある。
だが、悪魔に捕まって戻ってこない者も実際には多いのだ。
最後まで呪文を忘れないことである。

しくまれた間違いというものもあるかもしれない。
だが、それも必然である。
インドの聖者ラマナ・マハルシのところに、ある男が「美しい人妻と間違いを犯しそうだ」と相談に来たことがあった。
マハルシは、「そうなってしまっても後悔するな」と言った。
呪文を唱えても避けられないこともある。
それは、起こるべくして起こることだ。
そうであっても、呪文を唱え続ける限り、決して悪いようにはならない。
ただ、そんな時、葛藤や不安に駆られて呪文に感情を込めないことだ。
実際は、多少は感情が込もってしまっても効果がなくなったり、まして、マイナスになることはない。
しかし、感情を込めず、淡々と唱えた方がずっと良いのである。

ところで、呪文の価値を少しは分かっている者がよく、「ついでにこれをやれば効果はさらに上がる」などと言うことがある。
呪文に「ついでに」はない。
呪文だけで良い。
呪文は念仏と同じである。
法然は、「念仏のついでにこれもやりなさい」などとは決して言わず、ただ念仏だけをしろと言ったのだ。
呪文、念仏以外に価値のあるものはないのである。
ついでに何かやる暇があったたら呪文を唱えよ。
ついでのことの一千万倍の効果があるのだから。
ついでのことに0.1の値打ちがあっても、それには、マイナス100の罠があるかもしれない。
確かに、どんな罠も呪文で呼び起こされた力がなんとかしてくれる。
だが、どんなに高性能の地雷探知機があっても、好んで地雷があると分かっているところに行くこともあるまい。









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