私は学生の時、「スポーツは何かやってる?」と聞かれるのがウンザリだった。
連中の言う「スポーツをやってる」とは、学校のクラブ活動に入っていたり、スポーツクラブ・道場に通っていることで、私はそんなものに縁はない。
自室で、腕立て伏せやスクワットなどをいくら熱心にやっていても、それをスポーツと言ってはならないとしか思えない風潮だったし、それは今も変わらないと思う。
ある程度、歳を取れば、スポーツとは、ゴルフとか、ジムに通って水泳などをするとか、ジョギングやウォーキングをやっていることだろう。
私は、それらのどれも全然興味がない。
私は今は、「スポーツを何か?」と聞かれたら、「武術」と言う。
すると、やはり、質問者は、柔道や空手、あるいは、少林寺拳法の「道場に通っている」ことを想定する・・・いや、そんな想定しか出来ない。
私がやっているのは、柔道でも空手でも少林寺拳法でもボクシングでも太極拳でもない。単に武術である。
「試合はどうやるのですか?」と聞かれても、試合なんかしない。
私の武術は、いざという時、相手の身体を容赦なく破壊する、あるいは、殺すためのものだ。
空手家やボクサーと他流試合などもしない。試合となると、おそらく勝てないだろう。
ただし、私は現実派だ。
試合ではなく、戦争となれば、そんな連中と戦っても勝つつもりである。
私の武術は、不意打ちと武道の反則技をモットーとする。
勝つためには、どんな汚い手でも使う。
だから、戦う機会が無いに越したことはない。

ところが、ポール・ウェイドの『プリズナートレーニング』を読み、非常に親近感を感じた。
プリズナートレーニングは、囚人が他の囚人や悪質な看守から身を守るために強くなる訓練であるが、それとは別に、独房の囚人には、他に出来るスポーツがないという事情もある。
私も同じで、グラウンドも体育館も道場もなく、トレーニング器具もない私には、他に出来ることがないので武術をやっているという面もある。
ただ、プリズナートレーニングとは思想がかなり違う。
プリズナートレーニングでは、独房という、器具もスペースもない場所で、筋肉を極限まで鍛えることによって、敵を倒す力を得る。
対して私は、筋力もある程度は必要だが、それよりも、武道の反則技(効果があり過ぎるから反則になる)や危険技、実践格闘術(特殊部隊の戦闘術等)、それに、喧嘩に強い者の攻撃方法を研究し、自分に合ったものを取り入れたものである。
簡単に言えば、まっとうな格闘技や武道では「やってはいけない」と言われることは「何でもやる」のが私の武術だ。
とはいえ、ある種のプリズナートレーニングと言えるとは思う。
場所も器具も金も教師もいらないところがだ。
私も、世間ではプリズナー(囚人)と変わらないのだ。

ポール・ウェイドは『プリズナートレーニング』の本を、あらゆる家庭に備えさせたいようであるが、私の武術は誰も知らなくて良いし、教える気もない。
それほど汚い最低のものだ。
自信に満ちている訳でもない。使えば、こっちもタダでは済まないのだから、そこそこに使うことは出来ないのだ。
だが、おかげで、理想的なすらりとした美しい、そして狼のように俊敏に動ける身体を得ることは出来た。
私は、世間で言うオマケは好きではないが、これだけは嬉しいオマケと思っている。
無論、「全て順調だ」という呪文を忘れずにやるべきである。
すると、このような武術だけでなく、文字通り全てのことで、本当に喜ばしいオマケがいくらでも得られるだろう。
人生の楽しさとは、思いもしなかった真に素敵なオマケを得ることではないだろうか。









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