人間は、幼児の時は、何をすれば、ごく身近な大人(普通は親)に誉められるかを自然に学習し、それが基本的な思考パターンになる。
続いて、何をすれば学校の先生に誉められるか、友達に誉められるかを学んでいく。
だが、親から学んだことと、学校での教えが著しく違っていると、混乱し、激しく反抗するし、親には誉められたことがクラスメイトには怒られると、戸惑ってひきこもりになったりする。

やがて、何をすれば、神様や仏様に誉められるかを学ぶが、それは、「何をすれば自分の本当の心が喜ぶか」と同じことである。
本当の自分が神であり、仏なのだから。
しかし、幼い時の親の教え、教師の教え、仲間の教え、会社の上司や同僚の教えなどと、神、仏の教えは全然違う。
善いことをしたつもりでも神様、仏様は誉めてくれない。
悪いことをしたと思っても、罰せられるとは限らない。
神様や仏様に誉められたら、恵みは無限である。

そして、大昔の賢い人が、何をすれば神様、仏様に誉められるか理解した。
結局のところ、「普段、何を考えているか」で決まるのである。
あくまで「普段、考えていること」であり、突発的に「俺は世界を良くするぞ」などと考えることではない。
ほとんどの人が普段考えていることは、自覚はないが、実に下らないことなのだ。
そして、その卑しい考えは自動的に行われていて、止めることが出来ない。
ところが、1日1時間でも、その自動的な悪しき思考を止めれば、それ(悪しき思考)が弱まっていくことに気付いた人が「瞑想」というものを考案した。
しかし、瞑想で効果を上げられる人は、ごく僅かである。
なぜかというと、幼い時に学んだ教えによる悪い考えが強烈過ぎて、下手な瞑想を少々やったくらいでは、どうにもならないからだ。
そこで、仏教の天才、龍樹(りゅうじゅ)は、経典の中から、仏の名を常時唱える念仏という方法を見つけて教え、龍樹に続く賢い人達は、「つまるところ、これしかない」と考え、それを日本では、法然が受け継いだ。
「南無阿弥陀仏」という簡単な言葉を、常日頃唱えていれば、頭の中の悪い思いは、それに置き換わる。
「南無阿弥陀仏」と想うことが、神様、仏様に誉められることだ。
ただ、それは、「大丈夫」と唱えても「絶好調」と唱えても同じことだ。
肯定的でありさえすれば良いのだが、「南無阿弥陀仏」という言葉は、絶対的肯定であると考えられ、注目すべきことは今でも変わらない。
とはいえ、それは人によりけりであり、自分の好きな言葉を常時、頭の中で唱えれば良い。
日本語で最も効果のある言葉の例は「大丈夫」「全て善し」で、「全てうまくいく」「全て順調」も良い。
1つの言葉を選び、それを念仏や呪文として唱えると、恵みは無限である。









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