どれほどの、まるで駄目男、まるで駄目子であっても、1つの言葉でアファーメーション(呪文と言って良い)を続ければ、まずは普通の人並になり、平凡を超え、アファーメーションを本当に多くやれば、やがてはエリート、英雄になる。

ところで、10日近い休暇を取っていると、学生の時の夏休みを思い出す。
ほとんどの小中学生は、午前中などは、ある程度暇でゴロゴロしていることも多いと思うが、ぼーっとしながらでも、頭の中で1つの良い言葉を淡々と繰り返せば、すぐにでもヒーロー、ヒロインになれるものを、大切な時間を無駄にしてしまっている。
そして、親やテレビや、いまでは、ネットの悪い影響を受け、下がっていくだけなのかもしれない。
頭の中で「大丈夫」「無敵」「絶好調」「不死身」など、1つの言葉をずっとつぶやいていれば、夏休みの終わりに自死するようなことはなくなる。

あらためて、エマーソンの『自己信頼』を読むと、自己信頼がいかに大切なものであるかが分かるし、ブリステルの『信念の魔術』を読むと、信念の力の強大さがはっきり分かるが、では、どうすれば、自己信頼や信念が得られるかは、全く書かれていない。「書かれていない」などと言うと、反論もあるだろうが、実際に、それらを得るためのことが何も出来ないのだから、書いてないも同様なのだ。
優秀なだけでなく善良なはずの彼らでさえ、正しいかもしれないが難しいことを書くのが精一杯なのだ。
ニーチェすら、ツァラトゥストラに「高貴な魂の持ち主」と言わせたイエスは(※ニーチェはイエスが嫌い)、いくつかの易しいやり方を教えはしたが、それでも難しい。なるほど、彼の教えにより、世界は2千年をかけて随分良くなったが、いまだ多くの庶民は苦しいままだ。
イエスは、第一の法として、「神を強く愛しなさい、誰でも自分のように愛しなさい」と言ったが、感情を込めず、淡々と、「わが信頼する神」と頭の中でつぶやきなさいとは教えなかった。
実際は、それだけで良いのだ。
そして、それを教えたのが、善導、道綽といった中国の僧で、それを日本で引き継いだのが、法然、親鸞だった。
「南無阿弥陀仏」とは、「わが信頼する神」と全く同じ意味である。
しかし、宗教が、念仏に余計な意味をつけてしまい、人々が救われないようにしてしまった。
「南無阿弥陀仏」とは、無限の知恵と力を持ち、限りなく世話を焼いてくれる仏様への親愛を示すものなのだが、宗教は、そんな当たり前で簡単なことを教えない。

自己信頼を難しく考えるくらいなら、「凄いぞ俺」と、頭の中で淡々とつぶやけば良いし、「信念とは何ぞや」などと時間つぶしをするくらいなら、「大丈夫」と心でさりげなくつぶやきながら好きなことをすれば良いのである。
長嶋茂雄は「俺は絶対に打てる」といつも言葉でつぶやいていたし、200安打にこだわったイチローはきっと「俺は200本打てる」という言葉が頭の中にあったのだろうと思う。

私は、プログラマーとしては、短期間でバグのないプログラムを書くことにこだわった。
それで、普通の人が1ヶ月かかるプログラムを数日で書くし、バグはほとんどなく、リリース後は、あまりにトラブルがないので、その仕事から縁がなくなってしまうほどだ。
私はずっと昔、あまり程度の良くない本だったかもしれないが、その中に、
「短期間でバグのないプログラムが書ければ、ロリコンの変態でも一目置かれる」
と書かれていたのをよく覚えていたのだ。
私は、ロリコンでも変態でもない・・・はずだから(笑)、なおさらそうである(変態でない人間などいるのか?)。
だが、「バグのないプログラムを超スピードで書ける」という言葉にして、頭の中で淡々とつぶやいていれば、もっと上手くなっていたと思う。

ただ、法然の時代と違い、今は、誰もが英雄になる時代だ。
だから、唱える言葉は、自分で1つ選ばなければならない。
それが出来れば勝ったも同然であるが、実際、好きな言葉なら、何でも良いのである。









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