『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』、あるいは、正放送時の『カードキャプターさくら』や『美少女戦士セーラームーン』シリーズには、たとえそれらが好きでも、憂鬱な想いが重くまとわりついている人も多いだろう。
昔、岡田斗司夫氏が『東大オタク学講座』の中で、「我々が美しいと感じる夕陽も、猛獣が棲む場所で生活する人にとっては、それら夜行性の猛獣が活動を始める恐怖の合図だ」といったことを書かれていて、私は「なるほど」と思ったものだが、上に挙げた、日曜日の夕刻以降に放送のアニメも、「明日から毎日、学校や会社に行かなければならない嘆きの合図」なのである。
そのようなことを、『サザエさん』に関しては、「サザエさん症候群」として知られているのに、ずっとそれなりの視聴率を得ているのは、月曜が深刻に苦しい人というのは、それほど多くないということだろうか?
しかし、少なくとも一部の人にとっては、強い不安、あるいは、恐怖ですらあるはずだ。
その不安や恐怖を追い払うものは、自分にとって特別な、たった1つの言葉の力しかない。
瞑想したり、身体を鍛えたり、修行をしたり、賢者の本を読んだりしても、強くなることは出来ないし、状況を変えることは出来ない。
そもそも、それらの努力は継続出来ない。
苦しみから逃れるために努力すると、かえって苦しみを意識し、苦しみを呼び込む。
しかし、言葉を想ったり、唱えたりするのであれば、自在に出来るし、楽に出来ることであれば、苦しみと関わらずにスルー(ないことにする)出来る。
本当に苦しい状況にある人にとって、「ツイてる」「幸せだなあ」などという言葉は、嘘であるだけに苦しく、唱えれば唱えるほど心が壊れていく。
だが、『積極的考え方の力』で、ノーマン・ヴィンセント・ピールが、まさに、不安と恐怖に打ちひしがれた40歳の男に教えた聖書の言葉「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできる」であれば、嘘とは言えないし、深い心は真実であることを知っているので、力を発揮する。
もっと短い、天使が13歳のマリアに言った言葉「神にできないことは何1つない」は、もし嘘だと思うとしても、それはごく表面的な心が思うだけであり、本当には誰にも否定出来ない。
これらの言葉を、出来るだけ多く想ったり、唱えたりすれば、いかなる困難にも打ち勝ち、事実として、あらゆる問題を解決出来るだろう。
根気くらいは試されるかもしれないが。
「神は道のないところに道を作る」「予想しないことが起こり、道は開ける」など、自分にぴったりする言葉を選べば良いが、重要なことは、選ぶのは1つであるということだ。
続けさえすれば勝てるのに、1つでなければ、大抵の場合(実際はほぼ)続かないのだ。

私が昨日から見始めた(Amazonプライムビデオ dアニメストア)アニメ『アクセル・ワールド』では、学園ヒエラルキーの最下位にいる惨めなハルユキ君を黒雪姫が救うが、黒雪姫だって、
「もっと先へ『加速』したくはないか、少年」
という言葉を使わなければ、何も起こらなかった。
「ヨハネ福音書」の初めにある通り、「初めに言葉ありき」なのである。
法然や親鸞は、そんなことを知っていたから、必ず仏が守ってくれる至高の言葉であり、どんな馬鹿でも根性なしでも続けられる「南無阿弥陀仏」という念仏のみを教えたが、彼らは、それが釈迦の意思であると言う。それは、多くの仏教者が疑ったり否定したりするが、どう考えても、法然や親鸞が正しい。だって、他の仏教の教えは誰も救っていない。
そして、早い話が、嫌でなければ、どんな言葉でも良い。
「嫌じゃなかったらお嫁さんにして」の感覚である。
嫌ならもらわなければ良いが、可愛かったら、大抵もらっちゃうだろう。
嫁は取り替えてはいけないが、頻繁でなければ、言葉は変えても良い。
1つの言葉を使い続けるなら無敵である。
倶胝和尚が、何を相談されても指1本を立てたように、いかなる問題も、たった1つの言葉で解決するのである。









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