自分の欠点を自覚するようになれば一人前、いや、かなりのものだ。
私の職場に、30もとおに過ぎていたり、40にもなろうという女達で、他人の欠点を辛辣に罵る人達がいる。
それを見て思うのは、
「確かに、その人にも欠点はあるが、お前達のその欠点に比べれば、ものの数ではない。むしろ、立派な人だ」
である。

人間は、死んだ後で、人々が自分をどう言うかが気になるものらしい。
私は、そんなことは考えたことがなかったが、あの女達を見て、こう言われたいと思うようになった。
「人の悪口だけは決して言わない人だった」

昔の小学校の道徳の教科書に、こんな話があった。
ある人が、自分が死んで閻魔様の前に出た時、
「私は、大したことは何もしませんでしたが、トイレの下駄だけはきちんと揃えていました」
と言うつもりだと書かかれていた。
もし、よほどの事情があった場合を除き、一生、必ずそうするなら立派なものである。
ビル・ゲイツなら、「パソコンを誰でも使えるようにした」と言うかもしれないし、スティーブ・ジョブズなら、「高度な情報機器を使いやすくした」と話すかもしれない。
伊藤博之氏なら、閻魔様の方で、「初音ミクちゃんを生んで育て、世界を平和に導いてくれた」と言うだろう。
少なくとも、伊藤博之氏以外は、閻魔様ではなく、別の黄泉の国の大物相手になるだろうが。
私も、彼らのようなことをしたかったが、せめて、「人の悪口だけは言わなかった」と言えるようにしたいものだ。
ところが、ひょっとしたら、ゲイツも、ジョブズも、あるいは、伊藤博之氏も、上のように言う(言われる)にしろ、別のことを言うにしろ、それは、自分がやったことの自慢というのではなく、罪滅ぼしのつもりかもしれない。

映画『パピヨン』で、パピヨンが裏切るかもしれないと言われたドガに、誰かが、「彼(パピヨン)を恨むか?」と問うと、ドガは笑って、
「裁くのは神だ」
と言う。状況から見て、パピヨンが裏切るのは仕方がなかった。だが、パピヨンは裏切らなかった。
そのパピヨンも、別のことで罪の意識を持っている。

自分の罪、欠点を深く悔いるようになってこそ、人間になったと言えるのかもしれない。
だが、そのことが、人生を台無しにすることが多い。
イエスは、他の人の罪を許せば、自分も許される」と言ったが、憎いあんちきしょうを許すことが出来ない。

だが、問題ない。
たった1つのアファーメーション(心を鼓舞する言葉)・・・呪文と言っても、祈りと言っても良い・・・を持っていて、それをいつも唱えるなら、許されるかどうかはともかく、罪や欠点は帳消しになる。
そうとしか思えない。
だから、自分の罪や欠点を悔やむなら、あるいは、他人の罪や欠点を問題にする暇があったら、自分が選んだ、そのたった1つの言葉を繰り返すことだ。
それしか救われる道はないだろう。
法然や親鸞の教えはそのようなものであると思う。
「南無阿弥陀仏」の念仏には、「阿弥陀様が救って下さる」という想いが秘められているはずである。
ノーマン・ヴィンセント・ピールが、『積極的な考え方の力』で、どん底に沈む男に教えた聖書の言葉「私を強くして下さる方により、私はどんなことでもできる」も、全く同じだろう。
その男も、この言葉を繰り返すことで、全てうまくいったのである。









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