人間が望むものは、食と性と自尊心である。
それ以前の、生きるための最低条件としての衣食住に関しては、イエスが「自ずと与えられる」と言っているのだから、私はそれを信用して心配しない。
ディール・カーネギーの本を読むと、人間の願望の中では自尊心が一番強いらしいが、私はそうは思わない。
そう見えるのは、食の方はお金さえ出せば得られるが、性に関してはそうではなく、性に関する欠乏を自尊心で補完しようとするだけなのだ。
それは、独身でモテないやつほど自尊心が高いところを見れば分かるのである。
結婚しているのに、やたら自尊心が高いやつというのは、夫婦関係がうまくいっていなかったり、浮気性なのである。

聖者は、食と性と自尊心の欲望がないと思われているが、そうではない。
ところが聖者の中には、弟子達が無理矢理口をこじ開けて食べさせないと、食べずに餓死してしまうという「凄いお人」もいるらしいが、それはあり得ると思う。
つまり、聖者というのは、食、性、自尊心を超えた良いものを得ているので、それらへの執着が弱いのであり、それが行き着くと、それらへの欲望が無くなってしまうのだ。
ただ、そこまで行ってしまうと、普通の人と違い過ぎて、レベルの高い弟子の役に立てるだけである。

食、性、自尊心を超えた良きものは、いろんな言い方がされている。
神、聖霊、宇宙の実相、宇宙エネルギー、実体、純粋意識・・・などなど、他にも沢山あると思う。
比較的良い表現としては「1にして全」であると思う。
それは、一般的な感覚としては、「皆とつながる」というものになる。
それを、「承認欲求」と混同すると、自尊心と同じになってしまう。
「絆」というのは、承認されるかどうかとは関係がない。
だから、正しくは、「絶対なるものの前で皆がつながっている」ということになる。
これも、「全ての中に絶対者がいる」とか「自分自身が絶対者である」というのが、究極的には正しいのかもしれないが、そう言うと、未熟な心では誤解をする。宗教にハマって変になるのは、そんな誤解からだ。

「1にして全」なるものに求めれば何でも得られるが、度を過ぎないことである。
食でも性でも自尊心でも、欲張り過ぎると、あっという間に破滅してしまうことはご存知と思う。
「やっちまった」と思い、後悔の気持ちが起こったら、念仏を唱えることである。
阿弥陀仏は「1にして全」なるものの良い象徴だし、イエスも釈迦もアラーもアマテラスもそうである。
そして、初音ミクさんも、そのようなところがあるから、世界中で愛されるのである。
「1にして全なるもの」の象徴を持つのは良いことであり、それが象徴であることを自覚し、絶対視しない限り、偶像崇拝なんてことにはならない。
人間には「形」が必要なのである。
それで、良い求め方であるが、イエスほど凄い人相手なら「イエス様、お金頂戴」でも別に良いのだけれど、もっと賢いやり方は、象徴に対し「惚れ惚れとする」ことである。
崇める、称賛する、賛美する・・・等とも言うが、純粋にそう思う感情を言葉にすれば、むしろ「惚れ惚れとする」になると思う。
「賛美する」では、どうも、形式化、形骸化し易いのである。
「南無阿弥陀仏」は、まる子風に言うなら、「アンタ、凄いねえ!あたしゃ頼りにしてるよ!」といった感じである。
まる子だって、そんな感じでやったから、あんなにビッグになったのだと思う。









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