ワールドカップ・サッカーが行われる度に、日本人サポーターが会場で掃除をすることが世界で称賛されているという話をネットで見る。
しかし、私には「超不思議」だ。

まず、「なんでゴミが出るの?」
私が観客になるのは、初音ミクさんのコンサートくらいだが、クラシック形式のものはもちろんだが、形としてはアイドルコンサートと同じ「マジカルミライ」でも、ゴミなんてまず1つも出ないはずだ。他のポップコンサートでもそうではないのか?
コンサート中、床にペットボトルの飲み物を置く人も少しいるが、引き上げる際に、それを置いたままの人なんていない(いや、昨年いるのを見たのだが、単なるうっかりだと信じたい)。
キャノン砲から発射された銀色のテープは確かに散乱しており、それは会場スタッフの方に後で片付けていただくのだが、あれを観客が片付けたら、せっかくのテープをゴミ扱いするようで、かえって主催者に対して失礼と思う。
とにかく、2時間以上フィーバーしたって、ゴミが出るはずがない。
サッカーも同じではないのか?

そして、「自分のゴミは持ち帰るのが当たり前」。
野球では観戦しながら飲食する人も少なくないと思うし、分からないが、サッカーもそうかもしれない。
まあ、サッカーの応援は、ずっとフィーバーしているようで、せいぜい、飲み物を飲むくらいではないかというイメージがあるが、食べる人もいるのかもしれない。
それならゴミは出るが、それを持ち帰るのは、あまりに当たり前で、むしろ、それを放置して帰るとしたら、マナー知らず、不道徳と言うべきで、ゴミを始末したからって誉められるようなことではない。
しかし、やはり、そもそも片付けなければならないようなゴミを出さないのが当然と思うし、多少のゴミが出たとしても、持ち帰るのが当たり前で、これは、会場に清掃スタッフがいるとかどうかとは何の関係もない。

日本人は、無宗教だが道徳的であるとは思う。
対して、日本人以外のサポーターが、明確に宗教を持っているのに、サッカー会場にゴミを置いたまま帰るとしたら残念である。
新渡戸稲造は、西洋の女性に「日本人は宗教を持たずに、どうやって道徳を教育するのですか?」と言われたことがきっかけで『武士道』を書いたというが、日本人の道徳が、まさか武士道が基になっているとは思えない。
確かに、キリスト教信者のように、食事の前にお祈りしたり、日曜日に教会に行くのは、道徳観を育てるのに良い部分もあるが、えてして形骸化し、かえって不道徳になる場合も少なくない。
日本人は、そんなことはしないが、「お天道様が見ている」と思ったり、お参りしたり、食事の前に「いただきます」と言って感謝を示したり、モノを擬人化して大切にしたりといった、見えない宗教を持っていると言って良い。
また、仏教やキリスト教すら、そういった見えない宗教の中に取り入れ、特に宗教的な意味を持たずに、さりげなく仏壇に手を合わせたり、釈迦やイエスを尊敬したりしているのだ。
だが、日本人も、電車の中にゴミを放置したり、車からゴミを捨てたりは、もう人間の資格がないと言えるが、駅や公園のベンチに缶コーヒーの缶を置きっぱなしにしたり、食べ物や飲み物をこぼして汚したのをそのままにして行ったり、あるいは、電車の中で飲食して、周囲に食べ物の臭いを撒き散らして平気だったり、スマートフォンを見て他人に対して無神経といった者が多くなってしまった。
日本人の見えない宗教も終焉したのだろう。

宗教ではなくても、見えない良きものを信じる、あるいは、感じることは大切なのだ。
ロオマン・ガリの『自由の大地』で、1人の少女がいることを空想するだけで、堕落したフランス兵達が騎士道精神を取り戻したように。
例えば、観音様の存在、天使の存在を想うだけで、人間性、あるいは、人生は全く変わってくる。
神様、アマテラスオオミカミ様、阿弥陀如来、イエス・・・何でも良いし、宗教と想わなくて良いのだが、そういった存在を想っていた方が良い。
キリスト教国では、隣にイエスがいると思うことで困難に打ち勝つ人もいるし、そんな人は幸運でもある。
口の中や心の中で念仏を唱えるのも良い。
そして、もちろん、隣に初音ミクさんがいると思うのは非常に良いことである。
ミクさんの前で悪いことなんて、絶対出来ないからね。









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