昔から、「信じれば出来る」「信じれば叶う」と言われてきた。
新約聖書の福音書の中でイエス・キリストがはっきりそう言っていいるが、おそらく、それよりも先に言った人もいたのだろう。
だが、盲目的な信念は危険かもしれない。
古い白黒映画の中で、アパートの高い階から落ちそうになっている幼い男の子が、自分は落ちても天使が来て助けてくれるから大丈夫だと確信する場面があったが、実際に落ちたら死ぬことは、ほぼ間違いない。
だが、果たしてそうか?
『トーチェ氏の心の法則』という本には、毒蛇の害を知らない子供が平気で毒蛇と遊んだり、ある外部との情報が少ない未開の村では、脚が折れたら走れないことを知らない人々が、脚が折れても平気で走り回ったり、あるいは、酔っ払いが3階か4階か忘れたが、高いところから落ちたが、それに気付かなかったために、そのまま気分良く唄を歌いながら歩いていった等の話が沢山取り上げられている。
私も、7歳の時、住んでいた団地の前の交通量の多い車道に、「目をつぶって飛び込んだら、絶対に車は来ない」という、今思えばゾっとする信念でもって何度も、割合に大きな決意なく実行し、実際にそうなった。
ただ、そういったことは、あまりドラマティックなものではないかもしれないが、誰でも案外、経験しているものだと思う。
いやいや、案外どころか、自分が気付かないだけで、ひょっとしたら今でも、日常的に、そんなことが起こっているかもしれない。
そのことに多少気付いている者が、「俺はツイてる」なんて思うのだ。

イエスも「神を試してはならないと(旧約聖書に)書いてある」と言ったように、必要もないことにまで信念の力を無理に使ってはならないが、確かに、信じる心は奇跡を起こすのだろう。
その力の大きさを、イエスは、「山に向かって、海に入れと言い、信じて疑わないなら本当にそうなる」と言った。
では、さっき言った、アパートの高い階から落ちそうな男の子は、落ちても本当に死ななかったかと言うと、天使が来る前に、逞しい男性が助けに来てくれた。
このように、どう叶うかはいろいろなのである。
大切なことは助かることなので、神様がどう助けてくれるかは、まかせなければならないし、そのために、心を広く持たなければならない。
旧約聖書にも、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るだろうか?」と書かれているらしいが、助けがどこから来るかは神様にまかせるしかない。
例えば、ビジネスにおいて大切なことは、社会に貢献して儲けることであるが、どう社会に貢献するかは、案外、計画とは随分違うものなのである。

では、どう信じるかだが、大まかに2つあり、1つは、念じることだが、こちらは、もしかしたら難しいかもしれない。いや、そう思い込んでいるだけで、本当は難しくない。
もう1つは、「準備をする」ことで、こちらは元々易しい。
例えば、旅行に行きたいが、そのために必要な金も時間もないと思っているが、旅行鞄を買うという準備をすれば、金も時間も出来るというようにだ。
何度か書いたが、駆け出しの頃のバート・レイノルズが、既に大俳優だったクリント・イーストウッドに、「成功するまで何をしていたか?」と尋ねると、イーストウッドは「成功した時のための準備をしていた」と応え、それを聞いて悟ったレイノルズも大成功した。

可愛いあの子を彼女にしたいのに、そのために必要な準備をしないということは、やっぱり、あの子が彼女になることを信じていないのだ。
だが、準備をすれば、別の、もっと可愛い子が彼女になったりするものだ。
「金持ちになりたい」と言う人がいても、その人を見たら、「お前じゃ無理だ」と言わざるをえないのは、やっぱり準備をしていないからだ。

準備をする。
これが一番簡単な、願いを叶える方法である。
準備をすれば、叶ったも同然である。








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