本物の師というものは厳しいものであり、弟子や生徒達は、偉くなった後でも、「先生は恐かった」と言うものだ。
ところが、同じ師から学んだ他の者達はやっぱり「恐い先生だった」と言う中で、稀に、「私は一度も怒られなかった」と言う人がいる。
そして、そんな「怒られなかった」弟子が、意外に一番優秀だったりする。
なぜ怒られなかったか考えてみると、1つは、非常に優秀だったとか真面目で先生の言いつけを守るので怒る必要がなかったのかもしれない。
しかし、もう1つの理由として考えられるのは、実際は怒られているのだが、忘れてしまっているということだ。
ところが、実際に聴いてみると、「いや、私より優秀な人達も皆怒られていたし、私は少しも真面目でなかった」と言ったりする。
まあ、その弟子が、師の兄や父親に似ていたなんてこともあるかもしれないが、やはり、師はその弟子を怒る必要がなかったのだ。
そして、その理由は、その弟子は、「これだけやっていれば、先生は怒らない」というものを見つけていたのだ。
師すら気付いていないかもしれないが、「これだけやっていれば」が、その道の最も重要なものなのである。

ある立派な政治家の息子は、そんな父親の息子には珍しく立派な人間(笑)なのだが、父親は確かに恐い人だったが、靴を揃えている限り怒られなかったと言う。
彼の兄は、自分より成績優秀で、自分は風紀委員みたいなことをやったこともないが、兄は生徒会長だったという。
しかし、その兄は、父親に怒られまくっていたそうだが、やはり、彼は脱いだ靴を全然揃えておらず、片方が逆さまになっていることも多かったという。そして、その兄は後に、すっかり道を誤ったらしい。

ある芸能事務所の社長は、アイドルが、きちんと挨拶をする限り怒らなかったと言うし、挨拶が出来るアイドルは必ず成功したと断言するが、確かに、会社でも何でも、挨拶が出来ない者が本当に成功することは決してない。
また、ある武道家の弟子は、「先生は、裸足で歩くことをよく薦めておられて、よく激を飛ばす恐い人でしたが、それをやっている限り怒らなかった」と言う。

こんな話もある。
ある賢者は、「私は、『バガヴァッド・ギーター』だけあれば良い」と言うが、話すと、物凄い博学であったらしい。
それで、「何でも読んでいるんじゃないですか?」と誰かが尋ねたら、「いや、何も読んでいない・・・ついでに、たまに読むくらいはしたが」と言う。
これは、「これだけ」が、聖書だったり、歎異抄だったりすることはあっても、賢い人とはそんなものではないかと思う。
逆に、「あれも読まなければならない、それからこれも」と、「重要書籍」を山のように挙げる人は、ただの物知りである。

最近、ネットで、イチローが子供の時、『ドカベン』という漫画を読み、「悪球打ちの岩鬼」と呼ばれる変なバッターの、その「どんな球でもバットに当てる」というのが自分のバッティングスタイルになったというのを見たが、「心の師」岩鬼は、どんな球でもバットに当てようとする限り怒らなかったのだろう。
※岩鬼は、およそ師にしてはいけない人間である。

法然や親鸞は、念仏さえ唱えていれば、他のことはどうでも良いという人達だったと思うが、『ヒマラヤ聖者の生活探求』で、イエス・キリストが、「これだけ覚えていれば、他は全て忘れて良い」と言ったのが、「神」という言葉をなるべく多く使うことだった。「神」という言葉を言ったり、文字で見たりといったことである。

「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎は、「生活しながら静坐してはならない。静坐しながら生活しなさい」と教えたらしいが、これがまさに道の真髄だろう。
虎二郎の弟子だった柳田誠二郎さんは、若い人達に、「私の場合はたまたま静坐だったが、何か1つ、心を締める鍵を持ちなさい」といったことを言われていたと思うが、「究極のこれだけ」を見つけた人生が栄光の人生、勝利の人生なのである。









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