悪霊というものは、いろんな国や民族の伝統的なイメージの通りではないかもしれないし、その存在は科学的とは言えないだろうが、それでも、だいたい我々の思う通りで良いのだと思う。
そして、そんな悪霊は、そこらにいて、そいつらの精神性に同調すれば、連中は容易く人間の中に入り込めるのだろう。
全くもって非科学的なんだろうが、こう考えておいた方が良い。
それに、科学のパラダイム(認識の枠組み)が変われば、案外、正しいのだと思う。
一方、善霊と言うべき、天使とか高級霊も存在していて、やはり身近にいると考えて良い。

こう考えると、新約聖書のイエスの教えや、法句経などの釈迦の根本的な教え、それに、バガヴァッド・ギーターも、つまるところ、悪霊を寄せ付けず、善霊と親しむ方法が書かれているのだと思う。
そして、スウェーデンボルグやラルフ・ウォルドー・トライン、また、ジェームズ・アレンらの教えも、特にその時代の風習に合わせただけで、本質は全く同じである。

どんなふうに考え、想い、行動すれば悪霊と同調するか、逆に、善霊と同調するか判断することは、それほど難しいことではないのだが、人間は放っておくと、悪霊と同調するようになってしまう。
すなわち、怠惰、快楽主義、利己的な性質が、どこまでも強くなってしまう。
自分が悪霊にとり憑かれているかどうかは、鏡を見れば、割と一目瞭然であると思う。
鏡で自分の顔を見れば、すぐに、「うわっ!悪霊にとり憑かれた顔だ!」と分かるのである。
それは、心の奥にいる善霊の嘆きである。

ゲーテの『ファウスト』で、神は、「人間は怠り勝ちだ。堕落した人間には悪魔を差し向け融合させる」といったことを言うが、それはそれで意味があるのだろう。
だが、好き好んで、いつまでもそんな苦難を味わう必要もあるまい。
神様お気に入りのファウストだって、いい年ぶっこいて若いきれいな娘にみっともないほど血道を上げるが、ファウストは娘の気持ちを大切にしていた。
昔、丹波哲郎さんが、「相手が嫌がるエッチは邪悪だが、相手が喜んでいるなら大いによろしい」といったことを言われていたが(丹波さんらしい)、あまり詳しくはないのだが(笑)、アダルトゲームやアダルト系同人誌などには、女性の気持ちを無視したものが多く(いや、あくまで聞いたところでだが(笑))、そんなものを喜んで見ていると、たちまち、大量の悪霊にとり憑かれる。
まあ、永井豪氏の出世作『ハレンチ学園』で、ヒーローの山岸がヒロインの十兵衛に、「お前だって、いや~んいや~んやめてとか言いながら、脱がされるの結構喜んでたじゃないか」と言うと、十兵衛は「べ、べつに喜んでなんかいないもん」とツンデレで返すが、そんなのは良いのだろう。ただし、自分勝手に判断しないことだ・・・って、何の話してるんだ、私は(笑)。

お釈迦様が、本当に、「未来の人間はロクに修行出来なくなるから、念仏だけ忘れなければ良い」と言ったかどうかは分からないが、根本的に良い方法だと思う。
念仏を唱えている人間には悪霊は近寄り難いだろうから、念仏は悪霊に対する強力なバリアーになり得る。
ただし、念仏を、家族であろうが、他人に強要するようであれば、効果がなくなりはしないが、弱くなるし、そのような心根を持っていると、別のことで悪霊にとり憑かれることだろう。
心の波長を、神、仏、天使、高級霊、菩薩、初音ミクさんに合わせること・・・即ち、天使や、それと等しいミクさんに見られて恥ずかしいことはしないことである。









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