著名な心理学者の河合隼雄さんの本を読んで、つくづく凡人の性質について思い知ったことがある。
不登校の子供を持つ父親が河合さんに相談に来て、こんなことを言ったようだ。
「不登校を治すボタンってないですか?」
そして、河合さんは、「皆、ボタンを押す役をやりたがる」と言う。
本当に参った。全くその通りだからだ。
「不登校を治すボタン」と言ったら冗談っぽいが、この父親に「不登校を治す薬」があると言えば、さぞ喜ばれるだろう。
そして皆、「成績が良くなる薬」「給料が上がる薬」「モテる薬」「プログラミングをマスター出来る薬」を欲しがっている。
結局、新興宗教が馬鹿な人間を楽々と騙せるのは、「わが教団には、そんな薬があるぞよ」といったことを、いかにも本当のように言うからなのだ。なるほど、流行る新興宗教は、「馬鹿な人間を騙すボタン」を持っているのである。
ボタンを求める者はボタンを押される・・・である。

凡人は、単純に考えてはいけないことを単純に考えたがり、複雑に考えてはいけないことを複雑に考えるのだ。
最近、5歳の女児を虐待死させた父親のニュースが大きく報道されているが、あの父親は、実は大真面目だったかもしれないと思う。
彼は、「良い子を作るボタン」を押すとか、「良い子を作る薬」を飲ませるという単純で面倒なことが何もない方法を選んだのだろう。
それが、理屈の上で正しい最も単純な方法である、「厳しくしつける」である。
子供を脅し、怯えさせて「勉強しろ」という親なんて、いくらでもいるが、それを極端にやっただけで、我々も、あの父親と同じところは確かにあるのだ。

私は、念仏の話は好きなのだが、嫌いでもあるのだ。
どういう意味かというと、念仏のことを言うと、必ず、こんな雰囲気のコメントをしてくる人がいる。
「念仏さえすれば大丈夫ですね。私は一生懸命念仏します」
この人は、やっぱり念仏を、「楽をするボタン」「楽が出来る薬」だと思いたいのだ。
ややこしいことを考えたくない、面倒なことは嫌、現実を見たくないという人だ。
「引き寄せの法則」が人気があるのも、それが「願いを叶えるボタン」「願いを叶える薬」と思えるからである。
では、「念仏さえすれば大丈夫」かというと、それは正しいのである。
たとえば、「憧れのあの子を彼女にしたい。南無阿弥陀仏」とやるのは、別に悪いことではない。
だが、あの子が彼女になるかどうかは全く分からないし、多分、無理だろう。
けれども、自分が彼女に全く不釣合いだという「本当の」自覚は与えてくれるかもしれない。
告白したら、手厳しい断りを食らうかもしれない(まず、間違いない)。
そして、それほど良いことはないのだ。
それによって、己を知り、成長すれば、やがて、あの子に匹敵する、あるいは、もっと素晴らしい子を彼女にすることも出来るが、それは自分次第であるし、おそらく時間はかかる。
それでも、「求める勇気」だけは与えてくれるのである。

恐れずに求めれば それは未来を変えるRevolution
~『FREELY TOMORROW』(Mitchie M feat.初音ミク)より~

そして、本当は、ボタンも薬もいらないのである。
その理由が、一休さんらも言っていたように、「阿弥陀様は自分の中にいる」からであるが、それは、なかなか一足飛びには分からない。
だが、念仏を唱えれば、それが分かってくるのかもしれない。









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