感動的・・・と言うよりは、神秘的な威圧シーンを、私は2つ覚えている。
1つは、映画『ベン・ハー』の中で、権力を傘に横暴を働く囚人護送団の隊長の前に、ただの市民の男が立ちはだかり、隊長はそれを蹴散らそうとするが、なぜか威圧されて身動き出来ないというものだ。その市民の男は、後で分かるが、イエス・キリストだった。
もう1つは、笹川佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』で、町人の使用人が、武士にぶつかるか何か無礼をしてしまい、怒った武士がその使用人を切ろうとした時、その使用人の主であるという少女が、「使用人のことは主の責任。切るなら私を」と武士の前に座り、頭に血が昇ったままの武士が「そうかそれなら」と刀を振り上げるが、武士は威圧されて動けなくなり、惨めに去って行った。
(ちなみに、武士の「切捨御免」は実際には有り得なかった)

これらでは何が起こったのかというと、イエスや町人の少女は、無、あるいは、無我になっていたのだろう。
無になった人間相手に逆らったり敵対したりは出来ない。
無とは、心が完全に静まった状態だが、それに近ければ近いほど強い。
では、どうすれば無になれるのか?
それには死ぬことだが、本当に死んだ気になるか、死んだ状態になることである。
では、死んだ状態とか何か?
生きていることを「息をしている」と言うように、死ぬなら息をしなければ良い。
ただし、無理に息を止(と)めるのは、むしろ息をすることが前提である。
死人が息を止(と)めたりはしない。ただ、息をしないのである。
死ぬとは「息を止(や)める」ことである。
つまり、何の力も使わないまま、吸気、呼気がない・・・呼吸器官に空気の流れがなくなっている状態である。
もっと具体的には、軽く息を吐いた状態で、呼吸の流れを止(と)めてしまうことである。

人間は、生きているから問題が起こる。
ではなぜ問題が起こるのかというと、死ぬ練習をするためである。
何かあった時、息を止(や)めてしまえば、問題は消える。問題は生きた人間にしかとり憑けない。
ちなみに、借金や刑罰は問題ではない。働いて返せば良いし、罪は償えば良い。

人間の唯一の問題は、心がぐらぐら揺れることだ。
不動心であれば、何の問題もあり得ない。
心がぐらぐら揺れたら、息を止(や)めることだ。
そこまで行かなくても、限りなく息を止(や)めたような、微かな呼吸をすれば良い。
息をしていない人間には、悪魔だって手を出せない。
だから、悪魔は何としても、人間の呼吸を乱そうとするのである。
「アジマリカン」の呪文や念仏を唱えるのも良い方法だが、息を乱して唱えては何にもならず、ごく身近にいる人にも聴こえないくらい微かな声で唱えれば無敵である。









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