『ヒマラヤ聖者の生活探求』の3巻だったと思うが(英語版では確かに3冊目だが)、イエス・キリストが福音書では言わなかった実践的なことを教えている。
「他は忘れて良い」と言うくらいであるから、最上の教えということになるはずだ。
それは、「神」という言葉をなるべく多く使えというものだ。
そして、ここが私は気に入ったのだが、聖書が最も価値がある書物である理由は、他のいかなる本より「神」という言葉が使われているからだと言う。
「神」という言葉には、それほど価値があるとイエスは言う。
「神」は、この本の英語版では、普通に(何が普通か分からないが)“God”だった。

ただ、翻訳では、イエスは、それを「公式」にしてはならないと言っている。
「公式」は、英語版では“formula”で、「決まり文句」だとか「常套手段」といった意味だと思う。
つまり、簡単に言えば、「神」という言葉を空虚に繰り返しては駄目だぞという意味だろうか?

『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻で、著者のベアード.T.スポールディングは、「神(God)」を唱えるのは、有声、無声どちらでも全く同じと述べているが、「何度も繰り返す必要はない。一度でよろしい」とも書いていたように思う。
これもまた、「公式(formula)」にするなという意味と思う。
ラマナ・マハルシの本にも、彼の「私は誰か?」という言葉に対し、マハルシは「呪文にしてはならない」と言っていたのだと書かれていたのも、やはり同じような意味なのだろう。

言霊とでも言おうか、最も力ある言葉・・・ある意味「呪文」は、「神」ということになる。
昔の日本で使われていた「カム」や、アイヌでの「カムイ」でも、自分が馴染みのあるもので良いのではないかと思う(現代の日本人には圧倒的に「神」だろうが)。
ただ、「神」という言葉を、いい加減に軽く言ったり想ったりしてはならないとうことだ。
よく言われる言い方では、「心を込める」であるが、それを、普段から何をやるにも心が込もっていない者に言っても駄目である。
「心を込める」を「意識して」と言う人もいると思うが、私は、最も適切な言い方は「意思を込める」だと思っている。
そして、意思を強くするには、やはり修行が必要なのだ。
尊い本を読むことでも運動でも良いが、とにかく、意思を持ってやる・・・それは「丁寧に」「自主的に」といったことだ。
だが、現代人は「意思を込める」「丁寧にやる」「自主的にやる」ということが出来なくなっている。
自主的とは、たとえ周りがどうでも自分の意志でやるってことだし、責任を負うってことだ。
私は、私の職場のまるで駄目男君を興味深く見ていたことがあったが、彼の悲劇は、彼は何でも誰かの言いなりで、何でも他人に決めてもらい、自分で考えず、責任を持とうとせず、何でも言い訳する・・・つまり、自分の意志を放棄していることだと分かる。

そこで修行が必要になる。
どんなことでも良いから・・・多少シンドいと思うことでないと駄目だが、1年365日、1日も欠かさずを何年も続ければ、それなりの意思の力を持てる。
そんな者が「神」という言葉を使えば大きな力になるのだろう。

尚、『ヒマラヤ聖者の生活探求』は偽物だと言う者も多いと思う。
偽物だから良いのである。
あれほど本物っぽい偽物の値打ちは安くない。
そもそも、本物なんてどこにあるのか知らないが、きっと安っぽくて出せないのだろう。
私は、『ホツマツタヱ』だって偽物なら良いなと思うほどなのである。
『偽物語』(西尾維新)の貝木泥舟(かいき でいしゅう)の受け売りだが(受け売りでないって言えよ)、「本物であろうという意思のある偽物」は本物をはるかに超える。
『古事記』も『バガヴァッド・ギーター』も、「神」という言葉が沢山出てくる「本物」である。
だが、現代語や日本語にする過程ですっかり偽物になっているから良いのである。
どの翻訳者も本物にしようとしていたのだから、本物以上である。









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