私は、ミス・ユニバース等、世界的ミスコンに出場する女性達を美しいとか、すごく好ましいと思ったことは全くない。
時には、それほど強くはないが、彼女達に嫌悪感を感じることもある。
これが世界最高クラスの美人だと言われたって了承する気にはなれないし、しない。
だが、彼女達が物凄い美人だと思う人の感覚に文句を言う気もない。
実際、時代により、また、国などの地域により、さらには、同じ時代の同じ国でさえ、女性の美しさ、男性の美しさの基準なんて、「てんでバラバラ」だ。
しかし、ミス・ユニバースの審査員達が「これが美人だ」と押し付けてくると、それを受け入れてしまう人が多い。
これも一種の権威の力なのかもしれないが、美しいと思わないなら、
「これを美しいと言う人を否定はしない。しかし、私は美しいとは少しも思わない」
とはっきり言わなければならない。
未来のいつか、美しいと思う可能性もあるのかもしれないが・・・私の場合はおそらく無い。

たまたまミス・ユニバースを取り上げたが、いかなる価値も決めるのは自分である。
では、個人の独断を優先するのかと言うと、その通りだ。
確かに、自分の価値観を疑うことが賢明なこともある。
ただしそれは、「この価値観は私の本当の価値観ではなく、外部からの押し付けではないだろうか?」と疑う場合だけである。
曇りがないと感じる自分の価値観は信じなければならない。

エマーソンの『HISTORY』という詩がある。
その後半は、
I am owner of the sphere,
Of the seven stars and the solar year,
Of Caesar's hand, and Plato's brain,
Of Lord Christ's heart, and Shakspeare's strain.
だが、意味は、だいたいで、
「私は天空の所有者、7つの星の所有者、太陽年の所有者、カエサルの手腕、プラトーンの頭脳、主イエスの愛、シェイクスピアの詩の所有者」
だと思うが、釈迦の「天上天下唯我独尊」に劣らない自信である。
これを信じる信じないは、勝手と言えば勝手かもしれないが、修行をして信じられるようになると良いと思う。
つまり、「天上天下唯我独尊」は簡単に得られるものではないが、元々がそうなのである。
そして、修行とは、自分を信じられるようになるために行うものである。
自分に押し付けられた権威を捨て、本当の自分を救い出すことが修行である。
偽の自分を殺す修行は良いが、本当の自分を見捨てるような偽の修行をしてはならない。









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