日本のプロレス史上、最も重要な一戦は、1954年(昭和29年)の、力道山VS木村政彦の、「昭和の巌流島」と呼ばれる試合だろう。
この試合について、2011年になってからも、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』が出版されて大ベストセラーになったりすることから、その重大さが分かるのである。
当時、日本のプロレスの絶対王者であった力道山に対し、無敵の柔道家からプロレスラーに転向した木村政彦が挑戦し、結果、力道山の壮絶なKO勝ちとなり、木村は重症を負う。
この試合に関し、何が本当に本当なのかは分からないが、ただ、試合前に両者に引き分けの約束があったことは、それに反する証言がおそらく無いことから、確かなことだったと思う。
だが、なぜ、力道山が、約束を破って、木村をKOしたのかについては、いろんな説がある。
ただ、情報がほとんどない私に分かることが1つある。
それは、試合結果がそうなったのは、力道山がプロフェッショナルとして、木村が足元にも及ばなかったということだ。
ひょっとしたら、純粋な格闘家、武道家としてなら、木村の方が強かったかもしれない。
しかし、力道山には、日本のプロレスのリーダーとして、大事業家、革命家、大きな世界のストーリーライターとして、大きな責任があったのだ。
木村だって負ける訳にはいかなかっただろうが、力道山には、絶対に死んでも負けられない理由があったのである。
そして、絶対に勝つための方法を考え、実行出来たのは、真のプロフェッショナルだったからだ。
力道山は、あらゆる手を使い、木村に絶対に負けない準備をしていたのだ。
引き分けの約束はしただろうが、木村が裏切った時には確実に勝てるようにしていた。木村が裏切った訳ではないだろうが、何かのはずみで、そんなものが出てしまったのだ。
それだけのことだったと思う。

勝負には時の運ということもある。
しかし、真の勝負師は、大事なところでは、勝つ可能性を高めるために、あらゆる有効な手を打つのである。
どんな手を打てるかは、勝負をする者の知性による。
それは、単なるIQや試験の成績で判定出来るような知性とは全く違う。
その能力とは、老獪とか、狡猾という言い方をしなければならない場合も多い。
執念に支えられた知恵は、驚くべき巧妙さと、それに狡(ずる)さが存分に込められていることだってある。

今日、Amazonプライムビデオで『BEATLESS』の第10話「My whereabouts 」を見て、美しきレイシアの賢さにしびれた。
戦国時代の知将、尼子経久(あまごつねひさ)を少し思い出した。
ずるいとも十分に言える。
だが、世界を動かし、自由に構築するためには本当の賢さが必要だ。
並の知性では駄目なのである。
アインシュタイも言ったものだ。
「神は老獪である。だが、悪意はない」
神のようになるとは、そのようになることだ。









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