「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉は、「健全」という曖昧な言葉により、最初から破綻している。
一般には、この「健全」は、「逞しい」程度に捉えられていると思う。
しかし、この言葉は、元々は、古代ギリシャの詩人ユリアヌスが、身体ばかり立派で精神が幼稚なオリンピック選手を見て嘆きながら、
「我々は、立派な身体に立派な精神が宿るよう祈る」
と言ったのを、兵隊訓練やスポーツ商売のために都合良く変形させられたのだろう。
確かに、電車の中で、身体はよく膨らんで大きいが、粗野でマナー知らずで知性のない学生スポーツ選手をよく見る。

「健全な肉体に健全な精神が宿る」は、上で述べたが、そもそも曖昧過ぎて意味がないが、正しく言うなら、
「美しい肉体に美しい魂が宿る」
である。
これは真理だ。
さっき述べた、電車の中で見る、粗暴な学生スポーツ選手達は、身体の方はそれなりに立派と言えるかもしれないが、とにかく醜い。
顔も身体も言葉も行為も醜い。
完全に指導が間違っているのだろう。
一方、残念ながら見たことがないので、想像でしかないが、それでも、真剣な抽象的概念で考えれば、美しいスポーツ選手なら、心も美しいはずである。
だが、実物を見たことがない。
テレビで見るような、スター選手達は、美しい部分もあるが、あきらかに「いやらしさ」が優っていると思う。
大企業の宣伝要員として虚像を作り上げ、金まみれの場合も多い人間が、そう美しいはずがない。
オリンピックシーズンに、朝のニュース番組などで、オリンピックのメダリストが出てくるものは、私はとにかく、何もかも醜いので見ていられず、チャンネルを変えるかテレビを消す。

スポーツや武道でも、正しい心を作る目的を謳う場合があるが、そんな作り物の「正しい心」を作ろうとしたら、確実におかしなことになる。
そうではなく、スポーツや武道の目的を、美しい形・・・肉体、動作、態度、表情を作ることに置けば良いのである。
美しい心を作るなんて、作為的に出来ることではない。
だが、身体と心は一体化したものであり、身体を美しくすれば、心も美しくなる。
日本の茶道、華道、あるいは、弓道といった武道すら、それを目指すものなのである。
一方、心を醜くすることは簡単なのである。
欲望や邪まに任せれば、あっという間に醜くなり、心の醜さはすぐに形・・・顔、身体、行為、態度、言葉に現れる。
そして、美しい形を作るための鍛錬をすれば、心も美しくしていけるのだと思う。
スクワットの1回1回、素振りの1回1回を、美しくやれば、形の美しさになっていき、それが、僅かずつかもしれないが、心、あるいは、魂を美しくするのである。

フィギュアスケートなど、美しい動きを鍛えるスポーツでは、確かに、その部分は美しい。
だが、根本的な目的が美ではなく、富や栄誉・・・早い話が欲望なので、醜い部分の方が勝ってしまうのである。

スポーツも、それに、読書も、美しくなることを目的にすれば、神は至高の美なのであるから、神と一体化し、真の知恵と力を得て、世界を美しいものにしていけるだろう。









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