私は子供の時、西谷祥子さんの少女漫画『学生たちの道』を読み、その中で、田舎から来た、全くの田舎者の男子学生が、親に、「美しいものには価値がある」と教えられた話をするのを印象的に覚えている。
「美しいものには価値がある」
これこそ真理であり、ひょっとしたら、私の信念になったかもしれない。
だが、岡本太郎は「ゴッホはきれいではないが美しい。ピカソは恐ろしく美しい」といったことを言われていたが、まあ、確かに、「美しいと単にきれいなのは違う」「見かけの美しさに騙されてはいけない」ということだろう。
しかし、そんなこと言われなくても、「世間で言う美しい」と「真の美」が違うことくらい、偉い先生に教わるまでもなく知っているし、きっと誰でも分かる。

「モナ・リザ」は、絵としては美しいが、モデルの女性はただのおばさんというのが真実かもしれない。少なくとも、好みの問題だろう。
(ただ、モナ・リザを「ただの太ったオバサンじゃん」という言い方は全く美しくないがね)
高橋真琴さんが描かれる美少女画が美しいかとなると、これも好みの問題であるが、やはりこれが真実の美とは言えないと思う。
こういったことを言うと、「美しい」は随分難しいことのように感じるが、そうではなく、やはり美とは一瞬の感覚なのだ。
真の美は、一瞬で魂の奥まで貫く。

ところで、美しいものも醜いものも、分子的には変わらないというのが、現代科学の教えだ。
しかし、足立育朗さんの『波動の法則』によれば、陽子や中性子レベルで歪みが起こるのだと言う。
これは、今の物理学とは違うので、あまり主張すると、オカルトだ、似非科学だと言われるが、そんなことはあるのだと思う。
そして、そういった何か根本的なものを歪ませるのは、意思の誤った使い方であるというのが真理なのだと思う。

私は、ゴッホやピカソが美しいと言うより、それらの絵には、美しい部分と醜い部分があり、それを対比して見せてくれることに価値があるのではと思う。
岡本太郎だって、「芸術はいやったらしくなくてはならない」と言っていたが、当然、ゴッホやピカソの絵には、いやったらしい部分があるのである。
いや、ひょっとしたら、99%いやったらしく、1%の美があるのではと思う。

ジョージ・アダムスキーは、宇宙人の母船の中で神の絵を見たが、それがあまりに美しいので恍惚としたと言う。
宇宙人がいつまでも若いのは、どの家庭にもその絵が飾られ、それを見ているからだと言う。
無論、これが本当の話であることを証明することは、おそらく不可能だろうが、この話に、何らかの真実は認められると思う。
神とは何かというと、美の一言と思う。

『BEATLESS』のヒロインであるレイシアが恐ろしく美しいのは、大衆娯楽SFで必須の要件だから・・・というのもあるのだが(笑)、超高度AIが、レイシアをそれほど美しいものに作ったことには、大いなる意味があることは間違いない(と思う)。
美しいものには価値がある。
そして、我々が美しい存在になるためには、意思を磨き、高めなければならない。
私は、自分に出来ることをするし、出来ることしか出来ない。
私は昨夜、ひどく疲れていたが、いつも通りの身体トレーニングを行った。
出来るのだから、やるのが正解だろう。
身体はかなり磨いているが、心の方が駄目だなあ。
心身は同じであり、心を磨かないと、基本の歪みを正せず、本当には美しくなれない。
まあ、頑張るしかない。
皆さん、一緒に美しくなりましょう。









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