勤めている会社に行くのが嫌で、辞めたいと言う人に、近しい人が、
「修行だと思って頑張れ」
と言った。
会社とか学校というのは、「行かされるもの」という部分が大きく、普通は、修行にはならない。
なぜなら、修行とは、「自分の意志で行う」ものだからだ。
だから、本当の意味では、例えば、寺の息子が「やらされて」仏道の勤めを行っても、修行にはならない。
しかし、自分が本当に修行のつもりで、会社や学校や、あるいは、お寺の中で、自分の意志で「立派でいよう」「自分を磨こう」とするなら、どんなことでも立派な修行になるのである。

武士は特権階級であったが、その身分にあぐらをかいている武士は修行をしておらず、本物の武士ではない。
しかし、特権階級であることと引き換えに「せめて立派な人間でいよう」と決心し、そのための行いが修行となり、これが武士道となったのである。

昔、ある新興宗教教団が、信者に録音テープで「修行するぞ!修行するぞ!」という教祖の声を聞かせて修行させていたが、これの間違いは、信者は修行をしたのではなく、「修行のようなもの」を「やらされていた」だけだとうことだ。
信者自ら、そんな変なテープなど聞かず、自分の意志で「修行するぞ」と思うなら、本当の修行なのである。
そして、教団から強要される修行のようなものをするのではなく、自分で選び取った修行をすれば良いのである。
それが出来ないし、させないのが、悪い宗教の共通点である。

ニートやひきこもりが修行して意味があるかというと、大いにある。
ただし、あくまで、自分の意志でやる本当の修行の場合だけだ。
くどいが、自分の意志でやるなら、どんなことも修行になる。
運動でも、読書でも、掃除でも、念仏でも。
それらを、自分の意志で十分に行えば、修行の最大の成果である「意思の力」を得る。
そうすれば、ひきこもりであったのが、働こうと思えば働けるのである。
私も、ひきこもっていた時、運動をしたり、読書したりを、自主的に、それなりの時間と熱意で行い、1年もすれば、「働け」と言われ、「そうだなあ」と思ったら、すぐに働けたのである。修行のおかげで、それなりの意思の力を持てたからだ。
無論、自分が楽しいことをするのに意思の力はいらないので、そんなものは修行にならない。
ゲームとか、アニメを見るなどがそうで、これらは勉強になることはあるが、修行にならず、修行にならなければ、意思の力を得られず、何も出来るようにならない。

私は、手遅れになる前に、しっかり修行することに決めた。
自分の意志の力で行うことなら、何でも同じである。
学校の勉強ですら、やれと言われないことを自分の意志で余分にやるのは修行であり、続ければ立派になる。まあ、私はやらなかったが・・・
寺の息子でもない限り、念仏を唱えろとは言われないだろうから、自分の意志で念仏を唱えれば、それは修行であり、十分な時間を長く続ければ、確かな力を得ることが出来る。
要は、それなりに大変なことを、毎日、確実にやるのが修行である。
それをやれば、天はその者に必ず力を与える。
そして、力があれば勝てるのである。
腕立て伏せの最大の成果は腕力ではない。
それを自分の意志でやることで、意思が強くなることが最大の成果なのである。









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